村勇者 第10話「第9章」
朝の光はいつもより薄く、村会所の板張りの床に寝転んだ猫の毛が淡く浮かんで見えた。誠はその光景をぼんやりと眺めながら、どこかが欠けている感覚を手触りのように確かめた。朝の茜の鍛冶場から漂う鉄の匂い、子どもたちの遠くで弾ける笑い声、飯炊きの煙の匂い――それらは全部そこにあるのに、何かが映らない額縁のように心の片隅が空いている。
朝の光はいつもより薄く、村会所の板張りの床に寝転んだ猫の毛が淡く浮かんで見えた。誠はその光景をぼんやりと眺めながら、どこかが欠けている感覚を手触りのように確かめた。朝の茜の鍛冶場から漂う鉄の匂い、子どもたちの遠くで弾ける笑い声、飯炊きの煙の匂い――それらは全部そこにあるのに、何かが映らない額縁のように心の片隅が空いている。
「どうだ、気づいたか?」
大村清が低い声で話しかける。村長の顔は寝不足気味だが、目は鋭い。誠は顔を上げてうなずいた。
「うん。欠けてる。誰の記憶が消えたか、まだ全部分からないけど、確かに何かが欠けてる」
大村は紙袋を差し出した。中身は、先日の徴発所襲撃で奪い取った青い結晶片だ。夕暮れに微かに光ったあの欠片。今は布に包まれているだけなのに、誠の手に触れた瞬間、何度も見た火の記憶の断片が頭をかすめた。だがそれは断片であり、全体像にはならない。誠は掌で布を撫で、無言で結晶を受け取った。
会所には村の有志が集まっていた。茜は独特の道具箱を膝に抱え、指先には鍛冶屋の職人の筋が見える。リオはいつものように落ち着かない身振りで資料を広げ、子どもたちは入口でお行儀良くはしていない。年寄りたちも居並び、誰もが誠の顔を交互に見た。
「まずは現象を確かめよう」大村が言った。「理屈で押せるところは押す。噂と感情だけじゃ村は守れん」
誠は結晶片を台に載せ、茜とリオに手伝わせて簡単な検査を始めた。蝋燭を一本火にかざす。結晶の側に近づくと、火の揺らぎがいつもより鋭くなり、芯がぎゅっと吸われるように消えかけた。熱がゆっくりと結晶に奪われ、青い塊が微かに内部で淡く光る。
「吸熱性だ」茜が小声で言った。指先で割れ目に触れてみる。指先がひんやりとする。「持ち上げると、体温が奪われるかも」
リオは結晶に布を当て、息を吹きかけてみる。布の小さな端がかすかに波打ち、目には見えぬ振動が走った。リオの顔が引き締まる。
「それに反応するものがある。火とか、熱エネルギーに揺らぐ。……それだけじゃない。これ、見えない吸引みたいなものがある。小動物が近づくとせき止められない。徴発所の夜、家禽が妙に嫌がったろ?」
誠は手の中の火かき棒を確かめた。古びた木の表面には、前世の使い慣れた皮革の匂いとは違う、古い樹脂の匂いが残っている。棒を指で撫でると、ほんのわずかに冷たい振動が伝わった。あの時、棒が結晶に反応した気配を覚えている。だが村外では使えないはずの力が、何故かその夜、徴発所の近くで反応した。誠はその矛盾を噛み砕くように少しだけ眉を寄せた。
「火を引き寄せる、でも熱を奪う。つまり、エネルギーの異常な振る舞いだな」大村が結晶を覗き込む。「騒ぎを大きくしないうちに王都に連絡して調査を依頼したいが、あそこも碧の印の手が回っている可能性がある。俺らで何とかするしかない」
会所の空気が一瞬重くなった。誰もが希望を求めつつ、しかしそれが危険であることも直感していた。
「それで、誠さん」茜が静かに切り出す。「あなたの力、その――護村の焔で何が分かる?少しでも結晶の性質に触れた?」
誠は茜の目を見た。彼女の瞳はいつもより真剣で、鍛冶屋の手のわずかな震えが見える。誠は最小限の説明をした。言葉は短く、重かった。
「力は村を守るためのものだ。条件ははっきりしてる。村の範囲内で、守るべき誰かがいる時にだけ。棒を地面に突き立て、誓いを唱える。使うと守った人の記憶が一つ薄れる。体も一時的に老いる。感情も鈍くなる。俺はそれで二回使って、父さんの誕生日を一つ消した。あの小僧の笑い声の理由が、一つ薄れたんだ」
会所の中に沈黙が落ちた。誰も言葉を返せない重さがあった。記憶が一つ消える――日常の些末な出来事かもしれない。しかし誠はその欠落を、子どもの持つ個人史の一片が失われることとして言葉にした。老人は顔をしかめ、若者は腕を組んだ。
「記憶を犠牲にしてまで守るべきか」年寄りの一人がぽつりと言った。「それじゃ、人じゃなくて殻を守るだけにならんか?」
「でも命が失われるよりは」リオがすぐに反論する。「あいつの選択なしで死ぬより、これで子どもが生きるなら、それが正しい。問題は誰が決めるかだ」
議論は村の倫理そのものに波及した。誠は自分の手の甲を見つめた。そこに、生の時間が刻んだ小さな皺がひとつ増えている――ほんの短い時間、顔の一部が老いたように見えるときがある。代償は確かに肉体に刻まれていた。感情の鈍りはもっと厄介だった。子どもがけらけら笑っても、誠の胸の中心まで喜びが波及しない。代わりに淡い安堵と冷たい空白が広がる。救ったはずの命に対する喜びの濃度が下がる。彼はそれを恥じた。
「誠さん、私たちがもう少し研究する」茜の声が硬い。彼女は手早くメモを取り、指先で結晶の表面をなぞる。「古い刻文と似た模様がある。家にある文書の写しを持ってきたから、照合させて。あと、これを使って皆で話し合おう。俺たちでルールを作る。あなた一人で背負わせることはできない」
誠は茜の言葉に、ほっとしたような、しかし胸の奥に刺さる痛みを感じた。茜は彼を仲間として対等に扱おうとしている。だがその優しさは同時に、誠が選ばなければならない局面を近づける。
「本当に掘ってるのは採掘だろうか?」リオが地図を広げ、鉱山の位置を指で示す。「近隣の廃坑が怪しい。昔、資源採掘で潰れた坑だ。あそこから不自然に人が出入りしているという証言がある。誰かが結晶を掘り起こしてる」
「行くべきだ」大村が言った。言葉は短く、諦めのない決断を含んでいる。「だが、誠の力は使わない。あれは村での最終手段だ。ここで実際に何が起きているか、確かめに行く。情報と証拠を持ち帰る。証拠があれば、周囲の村や都市と連携できる」
誠は黙って聞いていた。村を守るために外へ出る。だが彼の能力は村を出ると機能しない。そこに立ちはだかるのは、範囲という物理的制約だ。火かき棒を地面に突き立てられるのは村だけだ。外で出会う危険に対し、彼は刃物ではなく知恵と道具で対応しなければならない。消防士の訓練は教えてくれている。火を消すためには周囲の環境を利用し、燃料を切り、風を読む。魔物に対しても同じだ。炎で追い払うだけが手ではない。
「じゃあ誰が行く?」茜が聞く。彼女の声には迷いがないが、その手はわずかに震えている。
「俺たちだ」大村が手を上げる。「誠、リオ、茜、そして数名の若手。行軍は夜間。見張りと罠を張り、情報を集める。直接対決は避ける。証拠を掴んだら即撤退だ」
会所の中で小さな同意が生まれる。村の若手たちは眼差しを輝かせ、旅支度の話が始まる。誠は自分の身体の変化を再確認した。手の関節に軽い痛み、夜にすぐに眠りに落ちる疲労、そして何より感情の鈍さ。人と話していて、笑顔が伝染しない山の心地を持て余す。
その時、会所の入口に小さな子どもが入ってきて、二人の婆さんに抱えられていた。子どもの目はまだ幼く、あどけない。誠は無意識に手を伸ばして、子どもの頭を撫でた。小さな頭が彼の掌にぴたっと収まる。子どもは「マコトさん」と呼んでにこりと笑った。誠はその笑顔を受け止めようとしたが、胸の奥の喜びが薄く、まるで薄い布越しに暖かさ