例外修復譚 第10話「第9章」
王都アルカの宰相府は、外側から見るほど威圧的ではなかった。石造りの建物はいくつもの抱えられた庭を内包し、日差しを切り取る格子窓の向こうには季節の植え込みが静かに並んでいる。ただ、その整いきった秩序が逆に息苦しさを与えた。放っておけば芽吹くはずのものまで揃いの形に整えられているのだ。街路の花が同じ瞬間に散り、同じ瞬間に葉を落とすと聞かされれば、誰だって背筋に寒さを感じるだろう。
王都アルカの宰相府は、外側から見るほど威圧的ではなかった。石造りの建物はいくつもの抱えられた庭を内包し、日差しを切り取る格子窓の向こうには季節の植え込みが静かに並んでいる。ただ、その整いきった秩序が逆に息苦しさを与えた。放っておけば芽吹くはずのものまで揃いの形に整えられているのだ。街路の花が同じ瞬間に散り、同じ瞬間に葉を落とすと聞かされれば、誰だって背筋に寒さを感じるだろう。
リゼは肩越しにその外套を見下ろし、心の中で無数の検証手順を反すうした。ここにある物証はどれだ。彼らは何を固定し、何を守ろうとしているのか。能力の条件が、事実の直接確認を唯一の入り口にしている。噂や報告書だけでは、彼女は赤い括弧を閉じられない。だが、それで良いのだ。知らない情報を補完できるほど万能ではないことを、彼女は前世での習慣として身体に染ませていた。
迎えの廊下を進むと、壁面に細い青白い糸が張り巡らされていた。針金のように冷たいそれは、灯を反射して淡く光る。糸は一本だけではなく、無数の線となって人の像の描かれた絵葉書の角を結んでいた。絵葉書のひとつひとつには小さな三角形の黒い札がいくつも重なり、裏には手書きの番号と注釈が見え隠れする。サージュは吸い込まれるようにそれを見つめ、指で数えた。
「これが、あの……」サージュの声は限りなく低い。慣れない指の先が震える。「登録された人々ですか。分類番号と、固定の履歴……」
「分類は、そんなに単純じゃない」出迎えた男はゆっくりと歩み寄った。高い襟の裾を整えたその顔は、年輪のように深い皺が刻まれている。ヴェルグ宰相だという呼び名は、ここにいる実物を見てもなお重たく響いた。彼は身体に似合わぬ柔和さで、壁の糸を指先で撫でた。糸はわずかに振動して、小さな鈴が一つ鳴った。青白い音は、冷たくも確かな合図だ。
「ようこそ。リゼ・アルト、ユノ、ミラ、サージュ。救済院での行いは噂になっていた。――『外から来た検証者』というのか。興味深い名乗りだ」
ヴェルグがリゼの名前を吐くと、胸のどこかに前世の端末画面の横棒が一瞬よみがえった。誰が彼女をそう呼んだのか、その意味はまだ定かではない。だが「検証者」という語は、背後で彼女が訓練した論理の輪を揺らした。検証されるべきは、彼の政策なのか、それともこの国の生存そのものなのか。
「なぜ私たちをここに?」ユノが前に出る。剣の柄がわずかに光を受け、欠けた紋章が暗闇の中でただそれだけを示す。彼の声は低いが、怒りではなく問いを孕んでいた。「救済院の子どもたちを集める理由を説明してくれ」
ヴェルグは肩をすくめ、府の主室へと彼らを誘った。主室は意外なほど狭く、だが壁面の一角に大きな時計が取り付けられている。その時計は、確かに針が二つあるのだが、そのうちの一本が逆方向を指していた。時針の一つだけが盤面の常識に従わず、黙々と反対へ回転する。針の根元には青白い針金が結ばれており、同じ色の糸が壁の絵葉書へと延びていた。
「針が逆回りに?」ミラが眉を上げた。「そんなもの、どういう意味が――」
「まさに検討の余地を与える仕様だろう?」ヴェルグは小さく笑ったが、その笑いは乾いていた。「時計を反転させることが、如何に人の命を救ったかを私は説明せねばならない。君たちは私のやり方を即座に否定するかもしれない。だが君たちは――特に君、リゼ。君には、直感ではなく、事実を積み上げる術がある。聞いてほしい」
彼は手招きして、主室の中央に置かれた円卓へ三枚の薄い板を広げた。板の表面には古い手書きの統計表が並ぶ。数字は整然としていて、そこには起きた災厄の類型、発生年、被害規模、そして「固定処置」実施後の致死率低下が列挙されている。数式のような行が続き、終わりに「固定によって救われた命:47321」と太く書かれていた。
「災厄の連鎖があった。村が消え、季節が狂い、疫病が爆発した。私はその時、妻と幼い娘を失った」ヴェルグは表を指でなぞった。指先が皺を追い、数字を確かめる人間のように見えた。「私は役人だった。誰かの命を数字で表すことが仕事だった。だが、その仕事がある一夜、私にとって意味を持たなくなった。私は全ての"ばらつき"が仇となるのを見た。偶然が連鎖し、無数が死に至った。私はもう一度それを見たくなかった」
その語りは、簡潔で冷たい手術のようだった。言葉に美辞麗句はなく、ただ事実と結果だけが残る。彼は己の傷を見せることで論証を積み重ねた。固定は暴力であり同時に救済である――その矛盾が彼を形成した。
「固定は、規則を強制的に安定化させる手段だ。季節を安定させ、流行を抑え、身分の移動を制限する。人は死ににくくなった。私が求めたのは、最小限の犠牲で最大の命だ」ヴェルグの声は震えない。「ここにいる者たちは、固定により救われた。君たちが救済院で見た子らの多くもだ」
ユノの顔色が変わる。セラのことを思えばそれが事実であっても、彼の胸は複雑だ。守るために隠すこと、守るために名前を消すこと――父の選択とヴェルグの論理は、似ている部分があった。
「では、その犠牲というのは具体的に?」リゼは静かに言った。彼の数字は信頼できる記録を伴っている。だが、記録が示す生存の代償は検証によって確かめねばならぬ。彼女は紙の上の統計よりも、「固定」された人の生の様子を知りたかった。目で見て、触れて、問いの答えを求める。彼女の能力は、そこからしか動かない。
ヴェルグは頷き、別の引き出しを開けた。そこから出てきたのは古い写真、療養所の名簿、そして一枚の律儀な書簡だ。写真には整列した人々が映り、表情は穏やかだ。だがよく見ると、誰の顔にもわずかな空虚が潜んでいる。全員が決められた時間に微笑み、決められた時間に静かにしている。生を維持するための平衡が、彼らの内側から何かを押し出しているようだった。
「君たちが恐れるのは自由の剥奪だろう。だが自由があるがゆえの死も事実だ」ヴェルグは写真を差し出した。「この国では、固定を実行したことで飢饉や疫病の致死率が大幅に減った。それは嘘ではない。犠牲を最小限にするために、私は痛みを選んだ。君たちの言う『選べる自由』は、いつでも誰かを死地に追いやる」
ミラが拳を握る。火術師らしい燃え上がる感情が、その場の空気に波紋を与える。「でも、それは人の選択を奪うってことよ。誰かが"救済"と呼んでいる鎖で他人を縛るのは、正しいの?」
「正しいかどうかを一人で決めることこそが、私をここに立たせているのだ」ヴェルグは言葉を切って、穏やかながら厳しい瞳で一同を見た。「私はかつて、何者でもない行政官に過ぎなかった。だが私は生き延びるために、決断を下さざるを得なかった。今ここで言うべきは結果だ。固定は犠牲を伴う。だが、我々はこの犠牲によって、数万人を救った」
話の進め方は淡々としているが、リゼにはヴェルグの真意が透けて見えた。彼は悪役としての単純な冷酷さをまとってはいなかった。悲嘆が理性へと変わり、その理性が人の命を数で計算する方向へ流れていったのだ。彼の選択は、確かに合理的だった。だがリゼが恐れているのは、合理性の行き着く先が「選択の消失」へと至ることだ。誰かが、あるいは何かが、選べなくなる