傷貨の聖女

傷貨の聖女 第6話「第5章」

朝の空気は、いつもより薄く感じられた。雪解けの水が道端の溝を小さく絶え間なく流れている。診療所の戸口の上にぶら下がった鈴が一度、弱々しく鳴っただけで、周囲は静かだった。リゼットはテーブルの上の帳簿を閉じ、手にした木箱の蓋をそっと抑えた。昨夜の会議で生まれた規約案の署名欄に、まだ一つだけ空白があった。しかしそれを埋める時間は、彼女も他の誰も持っていないと、直感が告げていた。

朝の空気は、いつもより薄く感じられた。雪解けの水が道端の溝を小さく絶え間なく流れている。診療所の戸口の上にぶら下がった鈴が一度、弱々しく鳴っただけで、周囲は静かだった。リゼットはテーブルの上の帳簿を閉じ、手にした木箱の蓋をそっと抑えた。昨夜の会議で生まれた規約案の署名欄に、まだ一つだけ空白があった。しかしそれを埋める時間は、彼女も他の誰も持っていないと、直感が告げていた。

遠くで、鋭い衝撃音が鳴った。最初は小さな落石の音かと思ったが、次の瞬間には連続したものになり、地面が短く振動した。鉱山の方角から、空気を裂くような叫び声が上がる。リゼットは無意識に立ち上がり、外へ走った。

坑口へ向かう道は、人と馬と荷車で一斉にあふれていた。灰色の粉が風に乗り、町の広場まで細かい膜を張る。人々の顔は粉で白くなり、口々に家族の名を呼ぶ。誰かが倒れている。誰かの腕が石に挟まれている。小さな子のすすり泣きが、凍えた空気の切れ目から響いた。

「落盤だ! 中央支路が崩れた!」

鉱山組合の呼び声が重なり、ガルドの顔が遠目に見えた。彼は片腕を胸に当て、叫びながら進路を切り開いている。右手を胸に当てる仕草は、いつもの祈りでも、黙示でもなかった。だがリゼットは今は考える暇がない。彼女は木箱を腕に抱え、診療用の包帯や簡易止血用具を鞄に突っ込んだ。

坑口に着くと、光はほとんど届かない。崩れ落ちた木材と石の山の間に、人の声と金属のきしみが混ざっている。ミナが反射器具を構えて、薄暗い空間に白い円を投げていた。彼女の器具の光があれば、奥行きの判別ができる。ミナの目は冷静で、息を切らしながらも声を張る。

「入れるだけ入る。重傷者を見つけ次第、外へ運ぶ。ノエラ、手分けして! セインは帳簿を持って、人の名前を拾って!」

ノエラは言葉少なに頷き、軍の訓練のように周囲を統率した。彼女は傷の程度だけでなく、当人の意思を尊重することを知っていた。だが今は、意思の確認ができない者が多い。顔をしかめる者、うめく者、無反応な者。リゼットはいつものルールを繰り返した。

「意思がある者には、私が説明をします。その代償と負担も。意識がない者は、登録された治療意思か、二人の代理確認がいる。今日は……例外を使います。緊急救命の特例、一回だけ。ノエラ、ガルド、代理を頼む」

ガルドは一瞬、驚いた表情を見せた。その瞳にはためらいがあった。操業の停止で一家の暮らしがどうなるか、彼は先刻まで考えていたはずだ。だが彼はすぐに拳を握りしめ、うなずいた。「わかった。やる。名前を言え、俺が代わりに証明してやる」

ノエラは声を低くした。「あなたは、代償を明示することだ。後で隠蔽を許すな」

リゼットは冷静に頷いた。能力の発動には同意が必要だという鉄則。それを曲げる特例は、時に人を救うが、必ず記録し、後で公開する義務を伴う。緊急救命は一度だけ。もしこれを行使すれば、後で帳簿にその事実を残し、理由と代理人の記名を添えなければならない。彼女はその重さを知っていた。

坑道の奥――木組みの欠けた支柱の下、胸郭を押し潰された男がいた。息はかすかで、唇が青く、手は泥と血で覆われている。意識は朦朧としているが、まばたきをしている。彼の顔に、若さと泥に混じった恐怖がある。リゼットはぎゅっと胸が締め付けられるのを感じた。前世の匂い、病室の白い光、患者の名前を保険のコードに変えてしまったことへの罪。だが今は数字ではなく、目の前の肉だ。

ノエラがそっとその男の胸に手を置き、低い声で確認した。「名前はトゥオ・ルン。いつも中央坑で働いてた。登録はしてない。だが妻がここにいる、そばにいる」

妻とおぼしき女性が顔を上げ、泣きそうな声で言った。「お願いします。息が……止まるのは見たくない。彼は休むって言ってたら……」

代理が一人、妻の隣にいた。ガルドは顔を歪めながらも、もう一人の代理として自分の名を言った。リゼットは法に基づく代理確認を二つ受け取った。これで例外発動の要件は満たされた。だがリゼットはその場で、限度の説明をしなければならない。

「緊急救命を行います。私が引き受ける痛みの一部を追体験します。今の私の眠りは少ないので、一日の許容量を越える可能性があります。もし越えた場合、記憶の欠けや体調不良が起きるかもしれません。それでもよろしいですか?」

妻の手が震え、しかし言葉は迷子にならなかった。「してください。後のことは……後で」

署名を書く余裕もなくガルドがうなずき、ノエラが臨場して簡潔に名前を呼んで代理確認の意志を示した。リゼットは深呼吸を一つし、素手で男の胸に触れた。

能力は手のひらから冷たい電流のように広がった。傷や圧迫が金属へと移る感覚は、いつも痛みと直結する。だが今は、その痛みが濃く、幅を持って押し寄せてきた。トゥオの肺に刺さるような鋭さ、過去の咳の記憶、母の見舞いの匂い、かつて彼が手紙に書いた一言――それらがリゼットの内側でざわめく。彼女は息を詰め、歯を食いしばった。

金属片が生まれる瞬間、薄い光とともに銀の欠片が浮かんだ。それは小さな楕円の塊で、まだ温かみを帯びている。表面に極めて細い黒い線が走っているのが見えた。その線は欠片の縁から縁へと延び、まるで一つの軌道を描くようだった。ミナが素早くそれを受け取り、専用の仕切りに並べていく。数が増えると、並べられた欠片の線は互いに繋がり始め、視覚的に「一本の線」として見えた。寒色の灯りのもと、銀片は小さな星座のように転がり、一本の黒い帯を織りなす。

「見えるか? この線……一つにつながってる」とセインが呟いた。彼の声は震えていた。帳簿屋にとって、この視覚的な連続は恐ろしい発見だ。量は一つの単位で、痛みの総量を物理的に示している。

しかし今は恐怖に浸る余裕はない。ノエラとガルドの手が男を引き、担架へ載せる。リゼットは残った力を使ってもう二人を優先した。重症者を救うという判断は、シンプルだ。だが現地で判断をするには、もう一つの問題があった――資源の限界。彼女の身体が回復するためには睡眠が必要で、今朝は十分に眠っていない。連続使用は危険だ。だから彼女は、重度に絞る。

「軽傷は止血と包帯、休息と数日の補助金で対応する。長期休業が必要なら、基金から補填する。だが今はまず、命を守る」

声を張ると、労働者の一人が顔を上げて叫んだ。「でも、治してくれ! 治してくれれば仕事に戻れる!」

ガルドがそれを聞くと、歯を食いしばって叫んだ。「仕事のことは後だ。今は誰が生きるかだ!」

そのやり取りの向こうで、小さな事故が延々と連鎖している。リゼットは意識のある者全員に、代償の説明を始めた。痛みの一部を自分が追体験すること、そのために明確な記録を残すこと、そして金属片は町の基金に入れること。理解した者から順に、彼女は触れていった。触れられた者の痛みは、彼女の胸の中で波紋となって打ち寄せる。熱を帯びた鉄の匂い、幼い日の骨折の記憶、夜勤の疲労が折り重なって噴き出す。リゼットは目を細め、白い息を吐いた。

ミナは器具の反射を動かしながら、負傷者を搬送する列を作った。彼女の小さな器具は、暗がりで光を跳ね返し、救護路を作る。ミナの体は泥で汚れ、