傷貨の聖女 第3話「第2章」
灰色の空が低く垂れこめる朝、グラナの町は鉱石の匂いで息をしていた。煙突からの薄い煙、乾いた土に混じる黒い粉。馬車の車輪が石畳を切るたびに、細かな埃が舞い上がる。リゼットはコートの襟を立て、布に包んだ銅片を握りしめたまま診療所の扉を押した。引き戸は軋み、木の匂いと消毒薬の匂いが混ざって鼻腔に入る。空っぽの棚が彼女を迎えた──一枚の見開きが二つに分断されたように、左側は薬壜の残骸と埃の筋、右側は台帳の切り取り跡と消えかけた名前の列。目を眩ませるほどの対比だった。
灰色の空が低く垂れこめる朝、グラナの町は鉱石の匂いで息をしていた。煙突からの薄い煙、乾いた土に混じる黒い粉。馬車の車輪が石畳を切るたびに、細かな埃が舞い上がる。リゼットはコートの襟を立て、布に包んだ銅片を握りしめたまま診療所の扉を押した。引き戸は軋み、木の匂いと消毒薬の匂いが混ざって鼻腔に入る。空っぽの棚が彼女を迎えた──一枚の見開きが二つに分断されたように、左側は薬壜の残骸と埃の筋、右側は台帳の切り取り跡と消えかけた名前の列。目を眩ませるほどの対比だった。
「来たか」
声は低く、無駄がなかった。ノエラが診療台の端に腰掛け、包帯の端を丁寧に折っている。軍服の跡がちらりと見える肩幅、眉間の一本の皺。彼女は聖女だの奇跡だのという話を好まなかった。歓迎の笑顔もないが、警戒の視線もない。あるのは事実だけだ。
「聖女のリゼット様──ではない、っけ?」と後ろから割り込んだのは若者だった。ガルドは額に浅い縦の傷を持ち、腕には古い包帯の痕があった。片腕を引いて歩く癖がある。彼は腕を組み、疑いの目を向ける。「都の者が、何をしてここへ──監視か?」
リゼットは肩の飾りのリボンを手で外した。布切れが床に落ちる。そこに書かれた家紋も、冠の色も、今はただの布だ。彼女は王の名乗りを放棄したわけではない。ただ、肩書が人を救う代価にはならないと知っていたからだ。
「監視ではありません。失格とされました。ここでできることを、したいだけです」彼女の声は平静だった。だがその平静の裏に計算があった。前世の査定員として、数字を読み、痕跡をつなぎ、制度の歪みを炙り出した目が、ここでも働いていた。
診療所の内側は予想の通りだった。薬壜は底を見せ、乾いた包帯の山は色あせている。棚に残るのは少量の砒素消毒薬と、古い軟膏の固まった塊。棚札は何度も擦られ、文字が薄くなっていた。診療台の隅には、名を削られた台帳が積まれている。文字の列はところどころ擦れて、旧い消し跡が白く光る。
リゼットはそっと台帳を手に取った。指先がインクの染みを辿ると、消えた文字の周りに薄い黒い線が走っているのに気づいた。それは傷ついた銀の縁のようで、光を嫌い、頁を横切って行儀よく王都へ向かう一本の道のようだった。心臓が少し弾いた。あの儀式で手にした一枚の金貨の表面に走っていた黒い細線と、同じく見覚えのある色をしている。
「何だ、その線は」ガルドが呟いた。
「気にすることはない」とノエラが短く言った。だが彼女の指先も台帳の縁に触れていて、手のひらに粉がついている。鉱夫の掌のように、ごつごつとした肌だ。
そのとき、小柄な女が手を拭いながら工房から顔を出した。ミナはいつも薄い煤で頬が黒く、手先には何かしら刃物の痕があった。彼女は革のエプロンを掛け、掌の間に小さな金属片を持っていた。片はざらざらとして、粗末な計器で磨かれた形跡があった。
「これが今ある材料の全てさ」ミナは金属を軽く弾いて見せた。金属の固有の光が、埃にかすかに反射する。「住民が怪我で出したもの、布で包んでおいた。削れば病院の材料にもなる。或いは補償に回せる」
「削る?」リゼットが同じ金属を手に取る。冷たく、わずかに脆い。触れると、手のひらに遠い痛みが差し込むような錯覚があった。彼女は反射的に手を引くが、ミナの目が鋭く動いた。
「触ると分かるだろう。治癒の痕で出る金属は、形が不安定だ。工房で削れば扱いやすくなる。王都の商人にはやらせない。彼らは評価書を付けて、誰の痛みを幾らに換えたかを消す」
ミナの言葉は鈍い刃のように切り込んだ。リゼットは台帳の黒線をもう一度見た。そこに答えの一部があるように思えた──だが台帳は破れかけ、隠された計算の痕が抜け落ちている。
そこへ、薄い肩衣をまとった男が入ってきた。セインだ。彼はかつて貴族だったが、今は没落を纏うようにして静かに歩く。手には王都から来た一枚の紙、押された印章があった。紙には「治療済み人数:百七十五」と数が書かれている。だが彼が差し出した町の名簿を見れば、そこに刻まれている名の数は百二十にも満たなかった。消えた五十五。名の後ろに、かすれた指の跡。あるいは、きれいに消された行。
「王都は報告を上げている。だが、ここにある名簿とは合わない」セインの声は小さく、しかし確実だ。「誰かが治療を記録し、別な誰かがその痕跡を消した。数字の上では、人は治ったことになっている。だが顔は戻らない」
リゼットの目が席の上の一角へ行き、そこで埃をはらった小さな紙切れが見えた。古い聖務院の紋章。五つの突起のうち、一つだけが小さく欠けている。朽ちた紋章は不完全に押され、欠けた突起は白く紙の色を見せている。リゼットはその欠如に妙な親近感を覚えた。王都での祝福の間に見た、誰かが欠けていることを示す図像と同じだ。
「この欠けは何だ?」リゼットは訊ねた。問いは仕事の刃物だった。彼女は常に事実から推理を作り上げる。
セインは息を吐いて、小さな鍵束を弄った。「古い記録には、この紋章が完全だった時代の写しがあるらしい。ただ、ここ十年で改竄が増えた。私は帳簿の一部を管理している。王都が出す数字は、概ね王庫に送った金属の額に合わせて調整されている──だが、ここの実体は違う。誰かが金属を国庫に流し、そこに『治癒』の名を付けて消している」
言葉は冷たい蒼白を町に撒いた。ガルドが拳を握る。ノエラは診療台の上で片方の手を休め、青ざめた患者の胸の前で黙っていた。患者は穏やかな老鉱夫で、右手は無意識に胸に置かれている。呼吸は浅く、目はうつろだ。病の徴か、恥の仕草か――リゼットは前世の経験が示す可能性をあれこれめぐらせた。数字が人を消していくとき、現実の肉体は帳簿の裏に押し込まれる。誰かの死が「計算上の損失」でしかなくなったとき、人はどこへ行くのだろう。
「君は医者なのか」ガルドがリゼットを睨む。
「医者ではありません。査定士でした」リゼットは素直に答えた。彼女の言葉には恥と誇りが混ざっている。前世の職能をなぞるならば、ここは既に彼女の庭であった。数字の端と端を結べば、見えない経路が浮かび上がる。
「なら、見せてみろ。証拠を」セインが紙を差し出した。彼は自分の肩越しに、王都の押印を見せる。「これだけだと、俺も疑う。だが、ここにある台帳とこれを突き合わせれば、誰が『治療した』と報告したのか、誰が報酬を受け取ったのか、ある程度は炙り出せるはずだ」
リゼットは台帳を膝に載せ、ページをめくった。名前の並び、年齢、傷の種類、治療の日付。だがその向こうに、黒い線が薄く走っていた。線は頁の端に沿って、まるで向こう側へ延びるかのようだ。彼女は指でその線を辿る。指先が触れたとき、皮膚の奥に小さな震えが走る。数年前の儀式で持った銅貨の感触と、痛みの一部がまざったような感覚だった。能力の残滓が彼女を警告する。触れると知る。触れると分かる。だが触れることで代償も生まれる。睡眠で回復する「負荷」を超えれば、記憶があやふやになり、ひどければ寿命が削られる。今は馬車での移動と、冷たい空気の中の短い仮眠しか取れていない。彼女は使える量が限られていることを把握した。
「ここで始めるしかない」リゼットは低く言った