傷貨の聖女 第2話「第1章」
榊澪は、がらりと違う名札を胸に当てられても、自分が誰であったかを忘れはしなかった。前世の名は榊澪──医療費査定員として幾千の診療記録と帳簿を読み、消された治療と埋められた損失を数え続けた者だ。今はリゼット・アーヴェル。王家の庶子の名を与えられ、聖印の印に指を触れたこともある。だが名が変わっても、彼女の見る世界は変わらなかった。数字の裏側にある人の声が、いつもよりはっきりと聞こえるだけだ。
榊澪は、がらりと違う名札を胸に当てられても、自分が誰であったかを忘れはしなかった。前世の名は榊澪──医療費査定員として幾千の診療記録と帳簿を読み、消された治療と埋められた損失を数え続けた者だ。今はリゼット・アーヴェル。王家の庶子の名を与えられ、聖印の印に指を触れたこともある。だが名が変わっても、彼女の見る世界は変わらなかった。数字の裏側にある人の声が、いつもよりはっきりと聞こえるだけだ。
儀式で生み出した一枚の金貨は、掌に冷たかった。表面を走る細い黒線は、光を嫌うように静かに伸びていた。長老たちの言葉は、形式的で薄かった。聖印は傷と疲労の一部を物質化する。治癒は移転であり、同意と記録が必要だ。過度の使用は印の主に代償を与え、記憶の欠落や最悪は命の損耗に至る──それが彼女に示されたルールだった。だが年端の行者どもの曖昧な説明より、彼女の前世のデータがひどく明晰に提示する。合意。記録。代価。ここでも同じ三つが巡っている。
追放令は冷たかった。護送の札が手渡され、執行の役人は表情を一切見せない。リゼットは札を見つめ、金貨を慎重に布に包んだ。誰がどのようにその金貨を扱うかを知るための検査記録だ。帳簿は必ず戻す。そう自分に言い聞かせながら馬車に乗り込むと、冬の朝はさらに冷え込み、窓の外の世界を白く切り取っていった。
「ここで休めるか」
役人の問いに答えながら、リゼットは自分がどれだけ眠れたかを瞬時に計算した。聖印の能率は睡眠に比例する。熟睡一時間で一負荷、通常八負荷が上限。昨夜は長老たちの詰問と儀式の緊張で断続睡眠に終わり、まとまった熟睡は四十五分ほど──つまり約0.75負荷しか回復していなかった。数字は冷静に、しかし確実に行動を定める。今日使える量は一負荷に届かない。緊急救命は一事故につき一度だけの例外条項で、代理確認があれば発動できる。だが例外でも代償は消えない。
馬車は山道へと入り、氷の張った轍に縋るように進んだ。外套の襟を立て、リゼットは窓から白い世界を見下ろした。鉱山の煙が遠くに立ち上り、そこがこれから向かう町の気配を告げる。雪道は容赦なく、和やかさなど一片もなかった。
曲がり角で、車輪が氷の薄皮に乗り上がった。馬車は滑り、横へと流れ、転落を免れようと悲鳴が混じる。衝撃で札が床に落ち、外へ出ると人が倒れ、血と呻きが混ざっていた。御者が肩を痛め、荷が散乱し、横になった若い女は腹を押さえて意識が薄い。状況は瞬時に医療現場へと変わる。
「代理人はいるか。事前登録は?」リゼットは条件を確認した。起動には触れること、治療内容と負担の説明、本人の同意が必要だ。例外として、意識不明者には事前登録された意思と二人以上の代理人があれば緊急救命を行える。ここでの時間は命だが、手順を省けば後で秘密は暴かれる。前世の彼女はそれを知っていた。帳簿が後で意味をなさない状況ほど忌まわしいものはない。
答える間もなく、ヴァルドが馬車を飛び出してきた。聖務院の執行官の鎧は雪をはらい、顔はいつもより険しかった。右手を胸に当てる仕草が自然に現れた。彼の姿には長年の重さが滲んでいる──正しさを秤に掛け続けた者の、擦り切れた意志の痕だ。
「放っておけるか。救える者を救え」ヴァルドの声は秩序の声だった。彼の信念は単純だった:最大多数の救済を図るために、可能な限り治療せよ。だがリゼットは異論を異論とも思わなかった。彼女の前世は、帳簿の数だけで命が決まる光景を見てきた。数字を正せば救える命が増えるのではないか。そう信じていた。
「医療は合意が要る。緊急救命の例外は一度だけ使える。しかし代理確認が必要です」リゼットは冷静に述べた。雪原の空気が鋭く耳を刺す。群衆の中で小さな決意が動いた。倒れている女のそばで、白い顔をした男がゆっくりと立ち上がり、震える声で頷いた。荷台の隅にいた年配の女商人も手を挙げ、二人の代理確認が成立した。
代理人二名の承認があれば、例外は合法に発動できる。だがそれは同時に後の公開を要求する。リゼットはそれを承知の上で決めた。回復している睡眠量は0.75負荷。例外を使えば一負荷を消費するだろう。晩に記憶の端が曖昧になることは避けられない。だが女の命が胎内の子を含めて守られるなら、その代価は帳簿に書かれるべきだ。彼女は息を吸い、手袋を外した。
掌が女の冷たい腹に触れたとき、痛みの波の一端が身体に流れ込む。生々しい苦しみが、肉の記憶のように襲った。リゼットはそれを受け止める。能力は、触れた者の痛みを一部この身へ移す。追体験だ。彼女は数値を唱える。負荷一・緊急救命一回・代理人二名在席。記録は必ず公開。心の中で帳簿の欄を埋めるように、彼女は必要事項を整えていった。
金属が生まれると、周囲の空気が一瞬、重くなった。銅色の片が血の滴から浮かび上がり、細い黒線を引いて宙へ伸ばした。線は雪の向こうへ、王都の方角へと伸びるように見えた。リゼットはその線の終わりを想像した。制度のどこかに与えられる痕跡。だが今はそれを懐へ入れた。金貨を王庫へ流せば、黒は濃くなる。誰かの痛みが帳簿として消されてしまう。彼女はそれを避けたかった。
治療が終わると、女の呼吸は落ち着き、顔色が少し戻った。代理人のひとりが嗚咽を漏らし、手を握る。リゼットは薄い達成感を感じたが、それはすぐに細かな代償の気配に変わった。使った負荷は一。回復していたのは0.75だった。超過は0.25。過度の使用は記憶の欠落を招く。すでに胸の奥に、日常の小さな景色──昨日の食事の味や、儀式の最初の長老の名──が遠ざかる感覚があった。彼女はペンのようにその感覚を自分の脳内で記録し、失われる前に一つの言葉を繰り返した。
「記録に残す。誰が何を負ったか、必ず書き残す──」
ヴァルドはやや息を大きく吐き、胸に当てた手をぎゅっと強くした。彼の手の動きは、本能で痛みを抑える仕草でもあった。リゼットはそれを見て、初めて彼の背負うものの輪郭を感じ取る。彼もまた、帳簿の前で誰かを切り捨てる決断をしてきた人なのだろう。だが今、雪の中で生まれた治療は隠蔽されない。代理人がいる。記録は残る。
馬車は再び整えられ、移動が始まった。負傷者は臨時の担架に乗せられ、町へ運ばれる。人々は互いに手を取り合い、雪煙のなかで小さな秩序を作る。リゼットは金属片を布に包み、胸に入れた。冷たさがまだ指先に残り、黒線は懐の中でかすかに震えた。彼女はペンと紙が必要だと直感した。記録を形にしなければ、後で帳尻は必ず狂う。前世でそれを何度も見てきた。
馬車の揺れの中で、リゼットは自分の名を静かに確かめた。榊澪としての査定の目が、リゼットとしての行いを見守る。ここで重要なのは称号ではない。誰がどのように痛みを負担したかを明確にすることだ。それがなければ、救済は帳簿に飲み込まれてしまう。彼女は布の裡の金属をぎゅっと握りしめ、雪の向こうへ視線を向けた。鉱山の煙はまだ遠く、これから先にはもっと大きな帳簿と更に重い選択が待っているだろう。だが彼女は初めの一行を書き終えた。記録が始まれば、変化のきっかけは生まれる。
窓外に、小さな集落の屋根が見えた。煙が一本立ち、人が働いている気配が近づく。鉱夫たちが胸に手を当てる姿