廃校体育館のロボット合唱団 第1話「プロローグ:埃の中の鼓動」
湿ったアスファルトの匂いが、開け放たれた窓から忍び込んでくる。 六月の雨は、琴ノ浦(ことのうら)町の景色を灰色に塗りつぶしていた。かつては炭鉱の町として栄え、今はただ静かに老いていくこの町で、浅見陽菜(あさみ・ひな)は、自分の足音だけが響く廊下を歩いていた。 旧琴ノ浦市立第三中学校。三年前、少子化による統廃合でその役目を終えた学び舎だ。木造の古い校舎は取り壊されたが、鉄筋コンクリート造りの体育館だけが、耐震基準を満たしているという理由で残された。今は「地域放課後学習室」という味気ない名前の札が入り口に下げられ、陽菜のような「行き場のない」中学生たちの自習室として開放されている。 陽菜は、この学
湿ったアスファルトの匂いが、開け放たれた窓から忍び込んでくる。
六月の雨は、琴ノ浦(ことのうら)町の景色を灰色に塗りつぶしていた。かつては炭鉱の町として栄え、今はただ静かに老いていくこの町で、浅見陽菜(あさみ・ひな)は、自分の足音だけが響く廊下を歩いていた。
旧琴ノ浦市立第三中学校。三年前、少子化による統廃合でその役目を終えた学び舎だ。木造の古い校舎は取り壊されたが、鉄筋コンクリート造りの体育館だけが、耐震基準を満たしているという理由で残された。今は「地域放課後学習室」という味気ない名前の札が入り口に下げられ、陽菜のような「行き場のない」中学生たちの自習室として開放されている。
陽菜は、この学校の最後の入学生になるはずだった。しかし、入学式のわずか一ヶ月前、隣町の巨大な統合校への通学が命じられた。新しい学校は綺麗で、機能的で、そして恐ろしく遠かった。バスを待つ間の二時間、陽菜はわざわざこの「死んだ学校」に戻り、一人で教科書を開く。それが彼女にとって唯一、自分を繋ぎ止める儀式のようなものだった。
体育館の重い扉を引くと、特有のワックスと埃が混じった匂いが鼻を突く。
「……誰もいない」
呟きは高い天井に吸い込まれて消えた。陽菜はパイプ椅子を引き、隅のテーブルにノートを広げた。外では雨音が激しさを増している。
その時だった。
ゴトッ、という鈍い音が、ステージ袖の暗がりから聞こえた。
陽菜の背筋に冷たいものが走る。ネズミか、あるいは建物の軋みか。そう自分に言い聞かせようとしたが、音は止まない。規則的な、低い唸りのような音が、次第に熱を帯びていく。
陽菜は導かれるように席を立ち、ステージの袖へと足を踏み入れた。そこはかつての備品倉庫だった。重い防音扉がわずかに開いている。
隙間から覗いた先で、彼女は「それ」を見た。
暗い倉庫の中に、ぼんやりと光る十二の目があった。いや、それは目ではなく、真空管の微かな光だった。
高さ一メートルほどの、木製の筐体。角の取れた四角い頭部には、真鍮の網で覆われた口のようなスピーカーがついている。それらが、埃を被ったまま、静かに震えていた。
「合唱……ロボット?」
陽菜は、祖父から聞いた話を思い出した。昭和の時代、音楽教師の不足を補うために開発された、合唱練習支援用の機械。琴ノ浦の工場で作られていたというそのロボットたちは、とうの昔に廃棄されたはずだった。
突如、一番端のロボットが、カチリと音を立てて口を開いた。
「――アーーーーー」
掠れた、しかし驚くほど澄んだソプラノの音が、静寂を切り裂いた。