明日を冷凍するスーパーマーケット

明日を冷凍するスーパーマーケット 第1話「プロローグ:午前三時の冷気」

午前三時。世界がもっとも深く沈み込む時間、スーパーマーケット「蔵屋」の店内は、人工的な光に満たされながらも、どこか墓標のような静寂に包まれていた。 如月冬馬は、冷え切った指先を白い息で温めながら、青果コーナーの品出しを続けていた。ビニール手袋越しに伝わるレタスの冷気は、深夜の労働者の体温を容赦なく奪っていく。自動ドアの向こう側には、地方都市・烏森市の湿った闇がどこまでも広がっていた。時折、国道を走る長距離トラックの重低音が遠くで地響きのように響くが、それはすぐに夜の静寂に吸い込まれて消えた。この街の夜は深い。まるで底のない水槽の中に沈んでいるような、そんな錯覚を覚えることがあった。冬馬にとって

午前三時。世界がもっとも深く沈み込む時間、スーパーマーケット「蔵屋」の店内は、人工的な光に満たされながらも、どこか墓標のような静寂に包まれていた。
 如月冬馬は、冷え切った指先を白い息で温めながら、青果コーナーの品出しを続けていた。ビニール手袋越しに伝わるレタスの冷気は、深夜の労働者の体温を容赦なく奪っていく。自動ドアの向こう側には、地方都市・烏森市の湿った闇がどこまでも広がっていた。時折、国道を走る長距離トラックの重低音が遠くで地響きのように響くが、それはすぐに夜の静寂に吸い込まれて消えた。この街の夜は深い。まるで底のない水槽の中に沈んでいるような、そんな錯覚を覚えることがあった。冬馬にとって、このスーパーマーケット「蔵屋」の煌々と輝く蛍光灯だけが、自分がまだ現実の世界に繋ぎ止められていることを証明する唯一の光だった。大学を中退し、目的もなくこの場所で働き始めてから半年。彼の人生は、賞味期限の近い惣菜のように、ただ静かに消費されるのを待っているだけのものに思えた。
「冬馬くーん、冷凍の納品、終わった?」
 レジの方から、同僚の佐伯紗季の声が飛んでくる。彼女は大学の二年生で、この時間帯でも驚くほど元気だ。冬馬より二つ下だが、ここでは彼女の方が先輩だった。
「今から行くよ。あと、こっちのレタス、少し傷んでるのが混じってたから下げとくね」
「了解ー。店長、裏で寝てるから、適当に検品しちゃって」
 冬馬は軽く手を挙げて応え、バックヤードへと向かった。
 「蔵屋」のバックヤードは、迷路のように入り組んでいる。積み上げられた段ボールの壁、埃を被った古い什器、そして独特の油と消毒液が混じった臭い。その薄暗い通路の突き当たりに、潜水艦のハッチを思わせる重厚な金属の扉が鎮座している。プレハブ冷凍庫だ。冬馬はそのハンドルを両手で握り、体重をかけて回した。重い金属音が響き、扉がゆっくりと開く。
 途端に、マイナス二十度の冷気が暴力的な勢いで冬馬を襲った。それは単なる寒さではなく、生命活動を拒絶するような絶対的な冷たさだ。肺の奥まで凍りつき、鼻腔の粘膜が瞬時に硬くなるのを感じる。彼は防寒着の襟を限界まで立て、今日届いたばかりの冷凍食品のコンテナを力任せに引き寄せた。
 棚に商品を並べていく作業は、感覚を麻痺させるための儀式のようだった。冷凍うどん、チャーハン、パスタ、ピザ。無機質なパッケージを一つずつ所定の位置に収めていく。指先の感覚が完全に消失し、関節が軋み始めた頃、冬馬の視線がある一点で止まった。
 棚の最奥。通常なら何も置かれていないはずのデッドスペースに、見慣れないパッケージが一つ、ぽつんと置かれていた。それは、まるで誰かがこっそりと隠した宝物のような、奇妙な存在感を放っていた。
 それは、透明なビニール袋に包まれただけの、簡素な惣菜パンのように見えた。だが、貼られているラベルには、商品名ではなく、奇妙な文字列が印字されていた。
『明日:午前九時 雨のち転倒(西口駐輪場)』
「……なんだこれ」
 冬馬は眉をひそめた。誰かの悪戯だろうか。それとも、新手のシステムエラーか。彼はそのパンを手に取ってみたが、中身は本物のパンのようで、ずっしりと重い。賞味期限の欄には、明日の日付が記されていた。
 冬馬は首を振って、そのパンを棚の隅に戻した。深夜の孤独は、時に脳に奇妙な幻覚を見せる。彼はそう自分に言い聞かせ、逃げるように冷凍庫を後にした。

翌日の午前九時。
 冬馬は夜勤明けの重い体を引きずりながら、駅の西口駐輪場を通りかかった。空からは予報になかった小雨が降り始めていた。
 ふと、前方で鈍い音がした。
 一人の老人が、濡れたタイルに足を滑らせて転倒していた。ドン、という鈍い音が雨音に混じって聞こえ、老人の買い物袋から真っ赤なリンゴが数個、転がり出した。リンゴは雨に濡れた地面を不規則に跳ね、水たまりの中に無残に沈んでいく。
 冬馬は心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。
 昨夜、あの冷凍庫の極寒の中で目にした、あの不気味なラベル。
『明日:午前九時 雨のち転倒(西口駐輪場)』
 腕時計に目を落とす。九時三分。場所は西口駐輪場のスロープ下。状況は、予言されていた通り「雨のち転倒」。一分一秒の狂いもなく、未来が目の前で具現化されていた。
 冬馬は我に返り、慌てて老人に駆け寄った。
「大丈夫ですか! 動けますか?」
 老人の体を支え上げると、泥と水で汚れたコートの感触が手に伝わった。老人は「ああ、びっくりした。大丈夫だよ、ありがとうね」と力なく笑い、腰をさすりながら立ち上がった。冬馬は散らばったリンゴを拾い集め、泥を拭いて袋に戻したが、その指先は小刻みに震えていた。
 あれは悪戯でも、深夜の幻覚でもなかった。あの冷凍庫は、まだ誰も知らないはずの未来を、物理的な「在庫」として保管していたのだ。その事実が意味する重みに、冬馬は雨の中で立ち尽くすしかなかった。世界が、ひどく脆い均衡の上に成り立っているような、そんな底知れない恐怖が彼を支配していた。