百年後の市役所

百年後の市役所 第6話「第5章:課長代理の沈黙」

地下から戻った志摩を待っていたのは、暗闇の中に立つ九条課長代理だった。 「こんなところで何をしている、志摩君」 九条の声は冷徹だったが、どこか微かな揺らぎを含んでいた。志摩は咄嗟に拾った紙片をポケットに隠したが、九条の目は誤魔化せなかった。 「……ミナさんのことを、調べていました」 「未来の少女か。佐伯から聞いたよ。君が馬鹿なことに首を突っ込んでいると」 九条はゆっくりと志摩に近づいた。その足音がロビーに響く。 「志摩君、君は公務員の定義を知っているか。全体の奉仕者であり、法を遵守する者だ。個人の感情で記録を弄ぶことは許されない。それがどれほど善意に基づいたものであってもだ」 「でも、九条さん

地下から戻った志摩を待っていたのは、暗闇の中に立つ九条課長代理だった。
「こんなところで何をしている、志摩君」
 九条の声は冷徹だったが、どこか微かな揺らぎを含んでいた。志摩は咄嗟に拾った紙片をポケットに隠したが、九条の目は誤魔化せなかった。
「……ミナさんのことを、調べていました」
「未来の少女か。佐伯から聞いたよ。君が馬鹿なことに首を突っ込んでいると」
 九条はゆっくりと志摩に近づいた。その足音がロビーに響く。
「志摩君、君は公務員の定義を知っているか。全体の奉仕者であり、法を遵守する者だ。個人の感情で記録を弄ぶことは許されない。それがどれほど善意に基づいたものであってもだ」
「でも、九条さん! 彼女は存在しているんです。百年後の未来で、僕たちと同じように息をして、助けを求めている。制度が彼女を否定するなら、制度の方が間違っているんじゃないですか? 僕たちは、人を助けるためにここにいるんじゃないんですか!」
 九条は黙って志摩を見つめた。その沈黙は長く、重かった。窓の外では雨足が強まり、雷鳴が遠くで轟いていた。
 やがて、九条は懐から例のUSBメモリを取り出し、志摩の目の前で弄んだ。
「この中には、凪ヶ浦の全戸籍データのバックアップが入っている。そして、それだけではない。過去の職員たちが、法では救えなかった人々を救うために遺した『裏の記録』もな。私の父も、その一人だった」
 志摩は目を見開いた。
「九条さんも、知っていたんですか?」
「知っていたさ。だが、私はそれを使わなかった。使う勇気がなかったのか、それとも組織を守ることを優先したのか……今となっては分からない。私は、法という名の殻に閉じこもって、自分を守っていただけなのかもしれない」
 九条はUSBメモリを志摩のデスクの上に置いた。
「受理印は、金庫の奥ではなく、私の机の二番目の引き出しにある。鍵はかかっていない。……私はこれから、本庁へ報告に行く。明日の朝まで戻らない。何が起きても、私は見ていないし、知らない」
 九条は背を向け、出口へと歩き出した。その足取りは、心なしか軽やかになったように見えた。
「志摩君。記録というものは、書かなければ消える。だが、書けばそれは真実になる。たとえそれが、百年の時を超えた嘘であったとしてもだ。君の信じる真実を、記録に刻め」
 九条の背中が夜の闇に消えていくのを、志摩はただ呆然と見送っていた。
 デスクの上で、USBメモリが青白い月光を反射していた。
 未来の端末が、また激しく鳴り始めた。今度はこれまでで最も大きく、切迫した音だった。