百年後の市役所 第1話「プロローグ:午前二時の呼び出し音」
凪ヶ浦(なぎがうらし)市役所の夜間窓口は、世界の終着駅のような場所だ。 深夜二時。コンクリートの壁に反射する蛍光灯の光は青白く、どこか水槽の底に沈んでいるような錯覚を抱かせる。志摩航(しま・わたる)は、二十八歳の臨時職員という曖昧な肩書きを背負い、誰もいないロビーの受付デスクに座っていた。 彼の仕事は、深夜に訪れる数少ない市民の対応と、明日の朝までに処理しなければならない膨大な書類の整理だ。婚姻届、死亡届、あるいは酔っ払いの愚痴。人生の節目と澱みが、この小さな窓口を通り過ぎていく。志摩は、インクの切れかかった古いスタンプを手に取り、無機質な事務作業を繰り返していた。 志摩は、自分がなぜここで働
凪ヶ浦(なぎがうらし)市役所の夜間窓口は、世界の終着駅のような場所だ。
深夜二時。コンクリートの壁に反射する蛍光灯の光は青白く、どこか水槽の底に沈んでいるような錯覚を抱かせる。志摩航(しま・わたる)は、二十八歳の臨時職員という曖昧な肩書きを背負い、誰もいないロビーの受付デスクに座っていた。
彼の仕事は、深夜に訪れる数少ない市民の対応と、明日の朝までに処理しなければならない膨大な書類の整理だ。婚姻届、死亡届、あるいは酔っ払いの愚痴。人生の節目と澱みが、この小さな窓口を通り過ぎていく。志摩は、インクの切れかかった古いスタンプを手に取り、無機質な事務作業を繰り返していた。
志摩は、自分がなぜここで働いているのかを時折考える。大学を卒業し、いくつかの民間企業を渡り歩いた末に辿り着いたのが、この地方都市の臨時職員という椅子だった。給料は安く、将来の保証もない。毎日、同じような書類を右から左へ流すだけの作業。自分という人間が、巨大な行政機構の磨り減った歯車の一つに過ぎないことを、彼は痛感していた。
窓の外では、夜の闇が凪ヶ浦の街を飲み込んでいる。かつては造船業で栄えたこの街も、今では人口減少と緩やかな海面上昇という二つの静かな危機に晒されている。再開発の計画はあるものの、遅々として進まず、市役所の建物自体も老朽化が進んでいた。
その時だった。
ロビーの隅、普段はメンテナンス用として放置されている旧式の端末が、聞いたこともない電子音を鳴らした。
ピピッ、ピピッ、という、心音を模したような規則的な音。
志摩は顔を上げた。広いロビーには彼一人しかいない。警備員の佐伯老人は、巡回に出たばかりだ。志摩は椅子を立ち、埃を被ったその端末に近づいた。
画面には、青い光の中に白い文字が躍っていた。
『警告:未処理の申請があります。2136年度・住民転入届』
「……2136年?」
志摩は思わず声に出した。見間違いではない。西暦二千百三十六年。今からちょうど百年後の日付だ。
システムのエラーだろう。あるいは、誰かの質の悪い悪戯か。志摩は画面に指を触れた。タッチパネルは驚くほど滑らかに反応し、次々と詳細なデータが表示される。
『申請者:ミナ(個体識別番号:非該当)』
『現住所:凪ヶ浦市・第4居住区(水没予定地)』
『転入先:凪ヶ浦市・中央区(現行システム内)』
画面の端に、小さな顔写真が表示された。ノイズが混じっているが、それは十歳かそこらの少女の顔だった。大きな瞳が、何かを訴えかけるように志摩を見つめている気がした。
志摩は、その「Enter」キーに指をかけた。反応の悪い、彼がいつも苦労している古いキーボードの感触が指先に伝わる。
これが、全ての始まりだった。