記憶を売らない写真館 第1話「プロローグ」
雨の音は、記憶の蓋を叩く音に似ている。 坂上伊織は、現像液の酸っぱい匂いが染み付いた暗室の中で、一枚の古いモノクロ写真を指先でなぞっていた。商店街のアーケードがまだ新しく、人々の肩がぶつかり合うほど賑わっていた時代の記録だ。写真の端は少しだけ茶色く変色し、時間の経過という抗えない力を物語っている。 指先が写真の表面、そのざらついた銀塩の粒子に触れた瞬間、伊織の耳の奥で「音」が弾けた。 ――わあ、すごい人ね。 ――迷子にならないように、お母さんの手をしっかり繋いでなさいよ。 それは、三十年以上前の夏祭りの喧騒だった。遠くで腹に響く大太鼓の音、かき氷機が氷を削るシャリシャリという涼しげな音、そして
雨の音は、記憶の蓋を叩く音に似ている。
坂上伊織は、現像液の酸っぱい匂いが染み付いた暗室の中で、一枚の古いモノクロ写真を指先でなぞっていた。商店街のアーケードがまだ新しく、人々の肩がぶつかり合うほど賑わっていた時代の記録だ。写真の端は少しだけ茶色く変色し、時間の経過という抗えない力を物語っている。
指先が写真の表面、そのざらついた銀塩の粒子に触れた瞬間、伊織の耳の奥で「音」が弾けた。
――わあ、すごい人ね。
――迷子にならないように、お母さんの手をしっかり繋いでなさいよ。
それは、三十年以上前の夏祭りの喧騒だった。遠くで腹に響く大太鼓の音、かき氷機が氷を削るシャリシャリという涼しげな音、そして名前も知らない誰かの、心からの笑い声。伊織の特殊な能力「聴憶(ちょうおく)」は、現像された物理的な写真に触れることで、そのシャッターが切られた瞬間の周囲数秒間の音を、脳内で鮮明に再現する。
伊織にとって、写真は単なる視覚的な記録ではない。それは時間を凍結し、空気を封じ込めた「音の缶詰」だった。
「……また、聞こえちまったな」
伊織は小さく溜息をつき、写真を現像トレイに戻した。
この能力を、彼は一度も祝福だと思ったことはない。他人のプライバシーを無意識に覗き見ているような後ろめたさと、二度と戻らない過去の残響に浸り続けることの虚しさ。二十三歳という若さで、亡き祖父から継いだこの「坂上写真館」は、彼にとって過去の亡霊たちがひしめき合う、静かで埃っぽい牢獄でもあった。
暗室の外、店舗部分の窓からは、再開発を控えた花びら商店街が、冷たい雨に打たれているのが見えた。かつては街の心臓部だった場所も、今や多くの店がシャッターを下ろし、その上には「未来へ繋ぐ街づくり」という皮肉なスローガンが掲げられた巨大な看板が、雨に濡れて鈍く光っている。
伊織は、作業机の引き出しの奥、さらにその二重底のようになった場所に隠された、一枚の「無音の写真」に視線を落とした。十五年前、母が自分をこの街に残して姿を消した日に置いていった写真。それに何度触れても、伊織の耳には何も届かない。ただ、真空のような、あるいは深海のような、息苦しいほどの静寂が横たわっているだけだった。
あの日の母は、何を思い、何を言おうとしていたのか。その答えは、十五年経った今も、雨音にかき消されたままだ。