灰色砂漠の病院船 第9話「第八章:決死の救命処置」
極限の状況下で、かつてない術式が開始された。 ナディール号は依然として灰の海に沈みかけており、船体は断続的に激しい震動に見舞われている。予備電源の残量はわずか十五パーセント。リナは、もはやオートメーション機能が停止した再統合装置を、手動のダイヤルとスイッチで強引に駆動させていた。彼女の額からは大粒の汗が流れ、その瞳には極度の集中による凄まじい光が宿っている。 「ソラ、エリオ。意識の同調を開始するわ。極細の光ファイバーを通じて、あなたたちの脳波を干渉させる。……ソラ、準備はいい? これは一方的な抽出ではない。あなたという個の境界を曖昧にする行為よ。下手をすれば、あなた自身の記憶の地図が永遠に書き
極限の状況下で、かつてない術式が開始された。
ナディール号は依然として灰の海に沈みかけており、船体は断続的に激しい震動に見舞われている。予備電源の残量はわずか十五パーセント。リナは、もはやオートメーション機能が停止した再統合装置を、手動のダイヤルとスイッチで強引に駆動させていた。彼女の額からは大粒の汗が流れ、その瞳には極度の集中による凄まじい光が宿っている。
「ソラ、エリオ。意識の同調を開始するわ。極細の光ファイバーを通じて、あなたたちの脳波を干渉させる。……ソラ、準備はいい? これは一方的な抽出ではない。あなたという個の境界を曖昧にする行為よ。下手をすれば、あなた自身の記憶の地図が永遠に書き換えられてしまう」
「わかっています。……始めてください、リナ先生」
ソラが静かに答えると、リナは震える手でメインレバーを押し下げた。
視界が、一瞬にして真っ白なノイズに塗りつぶされた。
再び意識が拡張していく。だが、今度の感覚は、先ほどエリオの記憶を覗き見た時とは比較にならないほど暴力的なものだった。エリオの脳内で暴走する石英のエネルギーは、もはや制御不能なプラズマの嵐となって、ソラの精神の海に襲いかかってきた。それは鋭利なガラスの棘となって、ソラの思考の糸をズタズタに引き裂こうとする。
「くっ……あ、あああぁぁぁ!」
全身の神経を逆なでされるような激痛。エリオが感じている、自分の魂が結晶となって剥がれ落ちていく絶望的な恐怖。そして、アッシュ・テラという惑星が発する、数億年分の記憶の重圧。それらが巨大な濁流となって、ソラの脳を直接揺さぶり、叩きつける。
『ソラ、逃げろ! 君まで飲み込まれる! この星の記憶は、人間一人が抱えられる重さじゃない!』
エリオの意識が、悲鳴のようにソラの頭の中で響く。彼の精神の核は、すでに結晶の棘に包囲され、今にも砕け散ろうとしていた。
だが、ソラは逃げなかった。彼女は歯を食いしばり、自らの記憶の海をどこまでも広く、深く広げていった。エリオの壊れかけた精神を、包み込み、守るための盾となるために。
彼女がその盾の素材として差し出したのは、皮肉にも「母リナとの、冷たくも確かな絆」の断片だった。
幼い頃、原因不明の熱でうなされていたソラの額に触れた、リナの氷のように冷たい指先。その冷たさが、どれほど心強かったか。
救命士の厳しい修行の中で、失敗して落ち込むソラに、リナが背を向けたまま一度だけ投げかけた「……次は、間違えないように」という、不器用な励ましの言葉。
そして、先ほど知ったばかりの、母が自分を救うために払った壮絶な犠牲の真実。
それらの記憶が、ソラの意識の中で柔らかな黄金色の光となって溢れ出した。その光は、エリオの脳内で荒れ狂う石英の棘を優しく包み込み、その鋭利な先端を丸め、熱を和らげていく。
「……同調率八十パーセント! 安定してきたわ。ソラ、そのまま維持して! 意識を逸らさないで!」
リナの指先が、火花を散らすモニターの上を神業のような速度で踊る。彼女はソラの提供する精神エネルギーを触媒として巧みに操り、エリオの脳外に剥離しかけていた結晶の破片を、一つずつ、丁寧に、元の神経細胞へと再統合していく。
それは、記憶の略奪ではない。二人の人間が、一つの巨大な運命を分かち合い、対話することによって成し遂げられる、究極の救済だった。
だが、その奇跡には、確実に代償が支払われていた。
ソラの意識の隅々で、大切にしまわれていた記憶の光が、プツリ、プツリと音を立てて消えていく。
(あ……あの時、母さんと食べたスープの味……何だっけ……。温かかったはずなのに、思い出せない……)
(カイルと初めて会った日のこと……彼はどんな服を着ていたかしら……)
日常の、些細で、しかしかけがえのない記憶たちが、エリオの魂を守るための防壁となって燃え尽き、消滅していく。喪失の痛みは鋭かったが、それでもソラは意識の奥底で微笑んでいた。大切な人を守るために、自分の一部を差し出す。それは、かつて母が自分にしてくれたことと同じ、無償の愛の形なのだと、今この瞬間に魂のレベルで理解したからだ。
「最後の一つ……再統合、完了!」
リナが魂を振り絞るような叫び声を上げると同時に、視界を強烈な閃光が貫いた。ソラの意識は、抗いがたい深い闇へと沈んでいった。
同時に、ナディール号を死の淵まで追い詰めていた砂嵐の咆哮が、まるで魔法が解けたかのように、嘘のように止んだ。後に残ったのは、静まり返った船内に響く、ソラとリナの荒い呼吸の音だけだった。