月蝕厨房の栄養譜 第2話「第一章」
祭の喧噪は、厨房の重い扉の向こうでぱたりと落ちた。踏み鳴らされた木の床は、まだ足音の余韻を抱えている。釜の縁で炎が跳ね、熱が子どもの肩甲骨に膨らんだ。だがその熱も、今は遠い。カルドが護衛の腕に抱えられて連れて行かれるとき、彼の目は真っ直ぐリネアを探した。目が合った瞬間、暗いものが滲み出るように揺れ、言葉にならないものがその瞳を引き裂いた。
祭の喧噪は、厨房の重い扉の向こうでぱたりと落ちた。踏み鳴らされた木の床は、まだ足音の余韻を抱えている。釜の縁で炎が跳ね、熱が子どもの肩甲骨に膨らんだ。だがその熱も、今は遠い。カルドが護衛の腕に抱えられて連れて行かれるとき、彼の目は真っ直ぐリネアを探した。目が合った瞬間、暗いものが滲み出るように揺れ、言葉にならないものがその瞳を引き裂いた。
「父さん!」
声は小さかったが、厨房の雑音の隙間に刺さる。カルドはぐっと振り向こうとし、生地の端を握りしめた。白い粉が指の間に詰まり、護衛の冷たい鉄輪がその上へ落ちる。縄が木に当たる金属音が、祭の残響よりも重く響いた。八歳の身体は薄く、包丁台は高く、釜は深い。だがリネアの胸の中には、水城澪として刻まれた習慣がある。患者の匙が止まる理由を見逃さなかったあの感覚。食べ物が「拒まれる」時は、ただ胃だけでなく記憶や恐怖が反応している——それを、彼女は知っていた。
護衛たちが去った後、城役人たちが焼き台の周りを囲んだ。穀倉院から来たと言う者の声は冷たく、女中たちの囁きが寄せ集まって証言となる。誰かが白パンの破片を指差し、「禁制品だ」と叫ぶ。噂は刃物のように研がれ、刃先は即座に人の首へ向けられる。だがリネアの視界の端に、別のものが一直線に浮かんだ。
箱の隅に入れられた小さな木箱。母の字で添えられたメモが折り込まれているその中に、淡い銀を帯びた茸の影があった。掌に載せるほどの小さな笠の縁は乳白色で、光を受けて薄く輝く。月光茸――王国では禁忌とされた夜のきのこ。父がそれを保存していたということは、好奇だけでは説明がつかない。カルドはただの奇人ではなかったのかもしれない。リネアは、母の匂いの残る布巾を固く握って考えた。
「ここにいたか、娘よ」と、役人の一人が裁定めいた口調で言った。「家主に問う。厨房にあるものの中に、禁制の物はあったか」
カルドは監視される牢のような仮房へ連れて行かれていた。手首にはきつく縄が巻かれ、腕の粉が薄く光る。面会は制限された。取り調べが終わるか、王城の命が下るまで、外への出入りは許されないという。だが役人たちの間で議論が割れる。祭で倒れた魔族の使者が白パンを食べて体調を崩した事実が外交問題になりかねない。もし保存食に毒が混じっていたら、双方の緊張は即座に高まる。王城は事態の拡大を恐れ、慎重に事実を積み上げようとしていた。
そのとき、帳面を抱えた若い兵が一歩前へ出た。革表紙の記録帳を腕で抱え、顔には浅い傷跡がある。整った顔立ちだが目は冷たい。剣を振るうより、紙の縁を追う方が自然に見える。エド・ヴァルン。リネアは彼の手つきが「記録」を優先する人物だと直感した。彼は無愛想にひと息つくと、口を開いた。
「しかし、事実を確かめる必要があります。血の流れをただ『毒だ』と断定するわけにはいかない。誰かが自らの意思で少量を摂り、その反応を観察する──そのような手順でなければ、ただの噂が証拠になってしまう」
役人たちは顔を見合わせた。議論の間、老看護師と名乗る女が近づいて来る。彼女の目は長年の実務で磨かれ、無言の安心感を与える。看護師は、食事の介助と患者の監視をすることを申し出た。王城の決定は早かった。暫定措置として、父の拘留は続くが、娘に往診の機会を与える――もしリネアが使者の身体に触れず献立を設計し、その再現を保証できれば父は釈放される。失敗すれば、両名とも城外へ出ることを禁じる、あるいはそれ以上の重責を負う可能性があると文書に記された。
言葉は短く、だが重かった。八歳の手が震え、紙の端をぎゅっとつまんだ。水城澪としての記憶が胸の奥に浮かぶ。病院で、患者の匙を下げさせないために何度も説明し、相手の選択を守った日々。ここでもその原理を守るつもりだ。だが違うのは、自分が子どもであること、そしてこの力が代価を持つことだった。
「往診――か」と、誰かが低く呟くと、老看護師がリネアの肩に軽く触れた。「小さい子に無理はさせられない。護送と記録、そして医療監視をつける。城の名代が同行する」
エドは無言で帳面を開き、何かを書いた。筆跡が一瞬荒れ、また整う。彼は護送と記録を、自分が務めると簡潔に宣言した。看護師は容態観察と応急処置を担う。二人の合図は、子どもの安全を形式的にでも確保するためのものだとリネアは理解した。条件は厳しいが、父の手首の粉の冷たさを思うと、それでも前に進むしかなかった。
「私は行きます」とリネアは小さく言った。言葉は震えたが、決意があった。「誰かに無理やり口に押しつけることはしません。相手が、自分で選ぶことを尊重します」
役人は眉を寄せた。城の手続きは無情だ。だが、祭の混乱をこれ以上大きくしたくないという思惑も働いた。しばらくの沈黙の後、試食は「同意した者のみ」「監視下で」「少量ずつ」に限定して許可されることになった。これで結果が出れば、さらに往診の命令へと繋げられるだろう。リネアは、その条件に頷いた。
出発の支度が始まる前に、彼女は父の仕事台を一度だけ見ることを許された。残された生地に手を触れると、指先は本能的に味見をした。薄い甘さが舌に残り、その瞬間、譜面が現れた。細い線だった。薄青、淡黄、煤色の三本が、生地の周りに音符のように浮かぶ。色が、音になって耳に届くとでも言うべきか——リネアは前世の職業感覚でそれを「読む」。
しかし《栄養譜》は事情を単純に結びつけない。そこに表示されるのは「どう反応するか」であり、原因名や処方ではない。薄青は麦のある成分が特定の身体に過剰に響くことを示す濁り。淡黄は熱の運びを乱す兆候。煤色は消化の流れを塞ぐように見えた。澪の知識を総動員すれば、王国の保存強化のための処理や、魔族側の酵素差を合わせて推測は出来る。だがそれは推測であり、証拠にはならない。
譜面を見る代償は確かにあった。薄い冷たさが唇の内側へ滲み、指先の力がふっと抜ける。身体のどこかから、同じ栄養の片鱗が抜かれていくような気配。前世で感じた「疲労」とは違う、もっと内側の欠落だ。心の中に小さな空洞ができる。八歳の身体はそれを容赦なく知らせた。リネアは膝を一瞬曲げ、布巾を更に強く握りしめた。
「大丈夫か」とエドが事務的に言った。だがその声の端には何か柔らかさもあった。彼は帳面の縁をめくり、時刻を記した。看護師はそっと氷袋の小片を出し、彼女の手首に触れた。安全は、形式だけでなく実務として守られることをリネアは感じた。
やがて、小さな器に粥が盛られ、薄く削った月光茸がほんの一片だけそっと乗せられた。塩は控えめに、香りは抑えられている。誰かを押しつけるのではなく、使者自身が「欲するか」を待つための構成だ。看護師は隔離区画の前で監視陣を整え、エドは一行に短い注意を与えた。「同意がない限り、何も与えない。経過は記録する。万が一の時は即座に救護を行う」
使者は仮設の区画に横たわっていた。角の影が薄くその額に落ちる。呼吸は浅く、表情は苦悶に引きつっている。魔族の使節が緊張した視線で見守る中、誰も声をかけない。時間がゆっくりと流れる。リネアはその流れを切らないように、器を差し出す手に集中した。母の縫い目が指に食い込み、包丁台の冷たさが手の平に