継ぎ目の王冠と廃都の修復士 第9話「第八章」
夜がまだ残る町外れの空気は、昨日の市場の喧騒を薄く引き伸ばしたように静かだった。石畳に残る足跡はあちこちで交差し、小さな灯りが一つずつ消えていく。綴はその並びを追って、塔の屋根に近い空き地へ出た。彼の掌にはまだ、鍛冶師に返した鉄製の柄の温もりが残っている。手の感触は簡単に消えない。忘却と向き合う彼にとって、肉体の記憶は頼りになる証拠だった。
夜がまだ残る町外れの空気は、昨日の市場の喧騒を薄く引き伸ばしたように静かだった。石畳に残る足跡はあちこちで交差し、小さな灯りが一つずつ消えていく。綴はその並びを追って、塔の屋根に近い空き地へ出た。彼の掌にはまだ、鍛冶師に返した鉄製の柄の温もりが残っている。手の感触は簡単に消えない。忘却と向き合う彼にとって、肉体の記憶は頼りになる証拠だった。
「兄さん!」
声は微かに震え、でも引力を持っていた。綴は振り返る。薄い白の外套を揺らして立つ少女は、十年前に見た妹の顔そのままに、しかしどこか整えられた表情をしていた。真帆は王宮式の聖歌士の飾緒をかけ、胸元には白い小さな結晶がいくつか光っている。聖歌士の隊列は後ろに二列、整列して立ち、隊列の端には遺産院の徽章がちらりと見えた。
綴の心臓がふっと高鳴る。胸の中の穴はまだある。だがその穴を埋めるために何を望むのかは、もう以前のようにただ「戻すこと」だけではなくなっていた。彼は真帆を見つめ、言葉を選んだ。
「来たんだね、真帆。無事か?」
真帆の瞳が揺れた。彼女は綴の隣に一歩近づき、誰かの監視を気にする素振りもなく静かに告げる。
「研究所が、あなたの魔法を持続させる方法を見つけたって。固定できる、永久に。町の崩落を止められる。もう誰も壊れた避難路や井戸に怯えなくていい──そう言ってくれたの、兄さんを助けたいからって」
言葉は軽やかだった。だがその軽さの向こうにある重さを、綴はすぐに嗅ぎ取った。真帆の歌が「固める」手段であることは彼女自身も知らなかったのではない。遺産院の指導は、救済という名目の下に単一の解を押しつける術を教え込んでいたのだ。
綴は懐から薄い紙の破片を取り出す。角は擦り切れ、文字はほとんど剥げている。それが二人で作った紙の冠の残骸だと彼が知っているのは、本能的な形の記憶だけだった。真帆の手がそれをそっと取る。指先が触れた瞬間、彼女の表情に一瞬の安堵が走った。
「これを、歌で――」真帆は続けようとした。だが綴は首を振った。
「待って。それが何をするか、もっとよく聞かせてくれ」
真帆の頬が赤くなる。彼女は唇を噛み、隊列の端にいた一人の聖歌士に軽く合図を送った。すぐに何人かが手を上げ、細い譜面台のようなものを出した。それは記録を固定するための補助具のように見えた。真帆はそれを見て微かにためらったが、綴を見れば決意が戻った。
「歌が膨らみ始めたら、私を止めて。誰も傷つけずに済むなら、私だって兄さんの願いを叶えたい。でももし、誰かの選択を奪ってしまうなら──それは救いじゃない」
彼女の声は震えたが、言葉は真摯だった。綴は知らぬうちに、幼い日の二人の約束を思い出そうとする。だが欠けた記憶はそこに影を落とし、彼の頭には子どもの頃の影絵のような輪郭だけが浮かんだ。記憶が揺らぐたびに、彼は以前の自分の腕の中にあったものがどんどん滑り落ちていく感覚に耐えていた。
リュネが横から口を挟んだ。彼女は羽根のように薄い羊皮を手にし、古い文字を目で追ってから言った。
「あなたの歌には強い律動がある。古文の節回しと奇妙に一致する部分がある。……久しぶりに聞く、人の歌が命令文を運ぶ形。これが、ただの修復の助けならいいが」
綴はその言葉に固まった。古代文字と歌の関係——それは彼が祭壇の欠片で感じた不協和、召喚陣の消失と同じく、単なる偶然ではあり得ない。リュネは視線を綴に落とし、続けた。
「それに、遺産院の者たちが『固定』という言葉を好むのは理由がある。何かを固定すれば、その物は変わらない。変わらないということは、指示に従い続けるということだ。歌が管理の一部になってしまったら──」
ノクが小さな体をぴょんと跳ねさせる。彼は拳を耳元に当て、音の残滓を舐めるように聞き取っていた。
「音を食べる立場から言わせてもらえば、歌が『命令の文言』を帯びているのは危険だよ。僕らの住み場は、音が守っていた。そこで誰かが音を封じるってことは、ここに住むものの声そのものを封じることにつながる」
言葉は冷やりとした。私語のように始まったはずのやり取りは、すぐに群衆の注意を引いた。地下居住区から来た人々が顔を覗かせ、塔の縁に立つ者たちの視線が一つに集まる。綴は真帆の顔を見た。彼女の瞳には迷いがあったが、同時に救いたいという真摯な炎も宿っている。
「私は、壊れつづけているのを見たくないの」真帆が言った。「子どもたちが乾いた井戸を指差して泣くのを、もう見たくない。歌で止められるなら、止めるべきよ」
綴はかつて分解と修理を繰り返した日々を思い返した。電気の回路が小さな抵抗や可動部分の相互関係で成り立っていることを、彼は知っている。どこか一箇所を硬直化すれば、システムは別の場所で負荷に耐えられなくなる。人の社会も同じだ。彼はその比喩を真帆に投げかける。
「固定は一時の安心をくれるかもしれない。でも壊れる原因をその場で終わらせるわけじゃない。むしろ、将来、そこが壊れたときに誰も手を入れられない『罠』になる。君の歌が強ければ強いほど、やめどきがなくなるんだ」
真帆は綴の言葉を受け止めるように、唇を噛んだ。その表情に綴は弟のような痛みを見た。彼女は、兄を守るためには何でもするという気持ちと、世界を安らげるという使命感の間で引き裂かれている。
「それでも……」彼女は小さく息を吐き、閉じた目を開けた。「もしも、兄さんが壊れる前に直せるなら、私はその方法を使いたい。あなたを失いたくない。たとえそれが誰かの自由を少し奪うことだとしても──それは、兄さんを守るための犠牲になる」
その言葉に綴の胸が詰まる。血が後ろに引くような気配。彼は思わず自分の胸に手を当てた。忘却は自分自身のためだけではない。他者が自分を「守る」ために何かを奪うとき、それは別の形の暴力になるかもしれない。彼ははっきりと言う必要があった。
「君の優しさは、俺の救いだ。だけど、救う手段が誰かの選択を奪うなら、それは救いじゃない。選択を奪うことは、言葉を奪うことと同じだ。俺はそれを望まない」
綴の声は低かった。だがその低さは確信に満ちていた。真帆はひざを折りそうになりながら、しかしまだ立っていた。
「じゃあ、どうすればいいの?」彼女は震える声で聞いた。「どうやって襲ってくるものや、壊れたものから人を守るの? その方法を教えて、兄さん」
綴は周りを見渡した。塔の縁に並ぶ住民たちの顔、貧しげな衣服、泥のついた子どもたちの手。彼らの表情は、一枚の写真のように彼の心へ染み込む。修理とは、単に部品を合わせることではない。誰かの生活の形を読み取り、何を残し何を変えるかを決めることだった。彼の前世の仕事が、ここで活きる瞬間だ。
「まず、固定するか否かを、現場の人たちと話して決める。誰が何を失うかを知った上で初めて直さないと、取り返しのつかないことになる。君の歌は力がある。俺たちはその力を一方向に使うのではなく、複数の小さな動作に分けて使うべきだ」
真帆は一瞬呆然としたようだったが、綴の言葉に従い、彼女は指を動かした。聖歌士たちが譜面を開き、低いハーモニーが町の空気に載り始める。真帆の歌はまず柔らかく、紙を撫でるように始