獣灯りの聖域医師

獣灯りの聖域医師 第9話「第八章」

夜風が尾根を滑り降り、ルーメンの谷は深い紺に沈んでいた。月は雲の向こうで息を潜め、村の屋根だけがまばらに灯る。石畳の端を足音がたどり、リトは息を殺して道を進んだ。カイは灯籠を二つ抱え、ミナは腰に小さな土嚢をぶら下げている。オルドは聖堂の短いロープで小さな鈴を鳴らし、遠くで合図を落としていた。誰もが互いの姿を確かめ合うように、無駄なく動いている。

夜風が尾根を滑り降り、ルーメンの谷は深い紺に沈んでいた。月は雲の向こうで息を潜め、村の屋根だけがまばらに灯る。石畳の端を足音がたどり、リトは息を殺して道を進んだ。カイは灯籠を二つ抱え、ミナは腰に小さな土嚢をぶら下げている。オルドは聖堂の短いロープで小さな鈴を鳴らし、遠くで合図を落としていた。誰もが互いの姿を確かめ合うように、無駄なく動いている。

「排水口はこの先の崖下だ。昼間は人が寄らない場所だが、坑の排水に近い」。ミナの声は低かった。彼女は鉱山の古い作業道を示す薄い跡を指差す。月の光が覗けば細い影が岩肌に落ち、そこに古い木の杭と鉄の輪が見えた。

リトは手袋をはめる。それは神殿で洗ってきた粗い麻の手袋で、前世の夜勤で使ったゴム手袋とは違うが、触れるものを少しでも清潔に保とうという意志を込めるには十分だった。彼女はポケットから小さな布切れを取り出し、匂いを嗅いだ。水の匂いではない。金属のにおい、湿った土のうっすらとした油、どこか薄い甘さが混じっている。獣医学で鍛えた嗅覚の残滓が、無意識に鼻を反応させた。

「ここか……」カイの声に続いて、ミナが慎重に石をどける。どうにかして作業道の先を覗き込むと、暗がりの底に黒い水が溜まった溝が見えた。水面は静かに落ち着き、だが近づけば近づくほど、木の根や鉱石の断面に映る青白い斑が目に付く。水面の一箇所が、規則的に膨らんでは収縮する。誰かの呼吸のようだ。

リトは立ち止まり、息を整えた。彼女は《生体譜》を使わない選択を、自分で噛み締めるように決めていた。能力は確かに彼女に声をくれる。動物の鼓動を、匂いを、鳴き声を色や音で訴えさせる。だがここは「水」が問題であり、守るべき相棒は目の前にいる。ネブラを安易に投入することは、相手を便利な道具にしてしまう。前世で、飼い主の不安につけこむ簡単な治療がどれほどの代償を生んだかを思い出す。リトはそれを、ここで繰り返さない。

「どうする、リト?」オルドの声が夜に溶ける。彼は背後で短く笛のような呼吸をしていた。家の灯りが近づくのを見張るための合図だ。

リトはゆっくりとネブラを袖の中から抱き出した。小さな獣は煤けた角を小さく動かし、薄い紙のような翼を震わせる。昼間は巣の陰で眠り、夜になると目が銀色に光る。リトは掌にその小さな体温を感じ、紙を擦るような高い音を一度だけ耳元で聞いた。それは感謝にも恐れにも似た、あまりに弱い合図だった。

「自分で見られる?」リトが問いかけると、ネブラは首をかしげ、さらに高く小さな音を上げた。羽ばたきのリズムは、言葉にはならないが「持ち場に行く」と言っているように見えた。

「もし吸うなら、月明かりが必要だ。さもないと浄化ができない」カイが呟いた。彼は懐から薬草の一株を取り出し、指先で葉の裏を確かめる。月光でないとネブラが取り込んだ穢れを浄化できないことは、リトたちが知る限りのルールだった。だが今夜は山の稜線と崩れた坑木が月を隠している。雲も動いていて、月白は頼りない。

ミナは排水口を覗き込み、岩の裂け目に小さなランプを差し入れた。灯りは水面を赤く照らし、油のように薄い膜が揺れる。糸くずのようなものが、水の表面を滑るように分布していた。だがそれが何かは、ランプだけではわからない。

「向こう岸に行ってみる。濡れた苔の色を見れば、どの水が鉱山由来か判る」ミナは低い声で指示を出し、立ち位置を変えた。彼女の動きは素早く、足場を選ぶと確実にそこに立った。鉱山の地形を読む技は、彼女が育った炭焼き場で身につけたものだ。リトはその熟練を頼もしく思った。

リトは布に指をかけ、内側の手袋を少しめくって指先の触覚を確かめた。前世の触診で培った感覚は、まだこの小さな手に残っている。冷たさ、粘性、粒子の感触。彼女は指先を水面に近づけはしたが、直接触らず、濡れた苔にそっと布を押し当ててサンプルを取る。カイがそれを受け取り、暗がりの中で匂いを確かめる。

「金属臭と、苦味の雫が混じる」カイが小声で言った。「塩分とは違う。薬草を煮るときに出る苦味。鉱石の溶出成分かもしれない」

リトは布を通じて得た情報を、頭の中で組み立てた。動物の症状、家畜の水桶の膜、樽の流通記録、そして今手に取った苔の色。前世の彼が、検査結果が揃うまで無駄な処置をしないことを苦労して学んだように、リトはここでも即断を避ける。行動は慎重でありながら、ためらいは短い。

「ネブラに見せるわけじゃない。見せることで糸が引き出せるなら――でも、月が出ていない」リトはつぶやいた。言葉にしなくても、誰もが分かっていた。ネブラの力は視覚化だ。穢れの流れを銀灰色の糸に変え、どこからどこへ向かうかを教えてくれる。だが代価は大きい。日中に発動すれば体に毒が溜まる。三度目の発動が自壊になるという話は、噂だけでなく彼らの耳にも届いていた。

ネブラは自らの胸をぺたんとリトの手に押し当てた。小さな体が震える。それは合図だった。彼は見に行く、そして何が起きているかを見せる、と。その意思は明確だった。リトは一瞬、前世の手術台のことを思い出した。無力な命に強制的に介入することの罪悪。動物の意思を無視して処置をするたびに、あのときの自分は後悔と共に眠ることしかできなかった。今、この小さな相棒が自らを差し出すというなら、答えはひとつだった。

「いい。君の意思だね」リトは静かに言って、ネブラの頭を撫でた。紙のような羽がかすかに擦れる音が、夜を切り取る。彼女は懐からさらなる布を取り出し、ネブラを包んだ。光は遮り、体熱が保たれるようにする。ネブラはリトの包みに頭を押し付け、静かに目を閉じた。

三人は慎重に排水口へ近づいた。岩の縁から下を覗くと、水流は狭い木の管へ吸い込まれていた。管は古く、そこかしこにさびと鉱石の粉がこびりついている。管の先には、掘削の跡が見える。木の板が外れ、そこから微かな泡が上っていた。水の動きは緩やかだが、確かに下流へ向かっている。もしこの流れをたどれば、村のいくつかの井戸を経由して家畜小屋へ回っていることが予想できた。

ネブラを抱えたリトは、ゆっくりと手を差し伸べた。小さな獣は自分から管の先へ垂れる枯れ枝に体を預け、前足を伸ばして水面をなめるように触れた。紙の羽がうっすらと震える。リトの胸は高鳴り、鼓動が耳の奥でふくらむ。彼女は自分の能力を封じる決意を固めていた。ここで音を聞いたとしても、それは「水」に対するものではなく、「生き物」に対するものだ。彼女は《生体譜》を使わず、ネブラという相棒の感覚に委ねることにした。

小さな身体が急に振るえ、ネブラの紙の羽がぴんと伸びた。鋭い高い音が夜空に突き刺さる。それは紙を引っ掻くような、しかし鋭利に澄んだ音階だった。次の瞬間、黒い水面から銀色の糸が一本、二本と立ち上がる。糸は空間を滑るように伸び、暗闇を銀の線で引いていく。まるで星座のように、床下の配管から岩の間を、木の杭を伝い、村の方向へと連なっていった。

その光景は、夜の空を切り取った大見開きのようだった。糸は無数に伸び、地下の分岐を網羅している。目で追うほどに複雑な線が重なり、どの線が主要な流れで、どれが枝葉かが一目で分かる。糸の先はぼんやりと光り、数箇所で小さ