獣灯りの聖域医師

獣灯りの聖域医師 第5話「第四章」

井戸の底の濁り

井戸の底の濁り

山の朝はいつも予告なしに湿っていた。露が草の葉を重くし、遠くの松林からはまだ冷たい風が滑り落ちる。リトはその湿り気を手のひらで受け止めるようにして、神殿裏手の小径を歩いた。納屋の匂い、干し草の埃、そしてどこかに混じる鉄のような、澱んだ匂いが鼻の奥に触れた。前世の記憶の影が胸の奥を暖める。診療所の薄暗い洗浄槽で匂いを嗅ぎ分けたときの、じっとした確信が蘇った。

「ここから上だ」ミナは足元の土を軽くけとばしながら言った。黒い革手袋の縁に細かい鉱粉が付いている。彼女の目は、廃鉱で何年も鍬を握った者のそれだった。山道の側に寄せられた石の壁の隙間、苔の色、わずかに盛り上がった根の向きまで見て、ミナはその先に小さな溝が走るのを指差した。「坑道の脇を通っている。昔はここへ排水していたんだ。組合が塞いだつもりでも、水は道を選んで流れる」

リトは指先で溝の縁に立つ水を触った。冷たい。だが、ただ冷たいだけではない。口の中にすこし金属の味が残るような、泥と鉄が混じった匂いがした。前世の勘が、犬の鼻先でも嗅ぎ取れない微かな変化を告げる。水面に薄い油のような膜が張っている。水生昆虫の姿は少なく、底の石は黒ずんでいた。小さなカエルがいたが、動きは鈍い。目の輝きがいつもより淀んでいる。

「これ、ただの濁りじゃない」リトは声を落とす。会話は必要以上に響かせない。遠くで農夫が鍬を持つ音、村の犬が一度だけ吠え、その後は沈黙が戻った。リトは足を下ろし、周囲の音に耳を澄ます。乾いた木の葉の擦れる音、苔を踏む自分の靴底の音、そして――水面から返ってくる、均一ではない低い雑音。まるで弦が湿っているように、音が濁っていた。

ミナはくいっと顎を動かして、側道の先を示す。そこを行けば、かつて排水を流していた坑口に出られるはずだ。しかし、道は簡単にたどれなかった。組合の見張りが来る。ヴァルグの者たちが、過去の隙を守るように、あちこちに立っているという。村の金を守る鎧だ。ミナの手が小さく震えたが、口調は変わらない。「見張りに見つかる前に、裏を通る。坑道の換気孔へ回れば、上から水音が聞こえる」

リトは首を振った。見張りを避けることはできても、鉱山の崩壊や落盤の危険を無視するわけにはいかない。古い坑道は予期せぬ空洞を抱えている。だが、止めていても濁りは村へ流れてゆく。リトは地面に跪き、掌で水面を撫でるようにして観察を続けた。前世の手技が身体に残っている。獣の毛並みの濁り方、呼吸に伴う体表の細かな震え、粘膜の色。人間以上に、動物の小さな徴候を読み取ることで多くを決めてきた。

「砂利の混じり方を見ろ」カイが言った。彼は手に小さな竹筒を持ち、そこに水をすくい入れてから匂いを嗅いだ。薬草を煎じるときの慎重さがある。カイは白い顔で眉間に皺を寄せる。「鉄の匂い。腐敗臭も混ざってる。塩辛い苦味がある。何かが溶け出している。鉱石の溶け汁かもしれない。重金属だと草や家畜がやられる」

ミナが小さくうなずき、足を滑らせるようにして山腹の狭い小道を登り始めた。リトとカイ、オルドが後に続く。道は苔むしていて、両脇の木の根が絡まりあう。視界の隙間からは、山腹を切り裂く一本の黒い筋が見えた。緑が深い斜面を、滲む墨のように走る線。リトは思わず立ち止まり、息を飲む。あまりに奇妙であまりに明瞭な対比が、ひとつの絵として視界を満たす。山の緑と黒い水の筋――その光景が、まるで見開きの一枚絵のように心の奥へ焼き付いた。

「そこだ」ミナが低く言った。指先で示す先に、小さな土堰がある。古い木の杭と石が積んであり、そこから溢れた水が黒い筋を作っていた。堰のすぐ上に、坑道へと続く換気孔が口を開けている。空気の流れが湿っていて、金属の匂いが濃い。リトは朽ちかけた木に寄りかかり、下方へ目を落とした。谷底へと続く水路が、ゆるやかに蛇行している。そこに映る空はいつもより鈍く、空の青が薄く汚れて見える。

「見張りがいる、ここを塞いでる」小さな声でオルドが囁く。聖堂の訓練が口を慎ませる。外套の裾を掴む手がほんの少しきつくなる。オルドは神殿の規定と古い文書を何より尊ぶが、今は実務の方が勝る。リトは息を吸って、心を整える。ここで正面から対峙すれば、組合の面子を刺激するだけで時間を失う。時間は、濁りが村へ下る速度と同じくらい残酷だ。

「裏から行く。換気孔の縁を回るんだ。落ちるな」ミナが短く命じる。彼女の足は坑夫のそれで、壊れかけた木製の梯子を確かめながら進む。リトはネブラを袖の中で抱きしめるようにする。小さな獣は煤けた角を震わせ、紙薄の翼を微かに広げた。羽音は湿った紙が擦れるような高音だった。ネブラは鼻の先で空気を嗅ぎ、わずかに震えた。彼の黒い瞳が下に流れる水面を捉えると、紙の羽が一度ぴんと張った。

「近づかせるんじゃない」リトは小声で言った。ネブラの眼差しが鋭くなる。小獣は穢れを感知する存在だ。これまで見えていなかったものを、彼は視える。リトはその能力を恐れていたわけではない。むしろ、彼女にはわかっていた。ネブラが昼間の水に触れれば、体内に毒を溜めてしまう。三度発動すれば自壊するという約束は冷たい事実だった。まだ使えない。使えば、今の彼らの状況では代償が大きくなる。

だが、ネブラは自然に前へ進もうとする。小さな足を水面の縁に掛け、紙の羽を震わせながら、銀灰色の糸を一筋だけ吐き出した。その糸は空気を引き裂くように見え、陽光の角度に応じて薄く光る。糸は水面の表面張力をなぞるようにして、流れの分岐を描く。リトは一瞬、世界が音を失ったように感じた。銀灰の線が水路の構造を示す。どの小溝が本流に繋がり、どの細流が家畜の水槽へ流れ込むかが、目に見えて示される。

その光景は言葉にしがたい安心をもたらすと同時に、重い責任を突き付ける。ネブラの糸は美しかった。だが、その糸を作るために小さな命が汚れを引き受けるならば、リトはどうするのか――その問いが胸を締め付ける。前世の経験が、彼女の判断を鋭くした。診療所で犬や猫を救うとき、いつも最初に考えたのは「今ある手で、最も被害を少なくする方法」だった。奇跡を願うのは最後だ。今はまず、観察と回避と組織化だ。

「引っ込めろ」リトはネブラの首元を包むようにして袖の中へ押し戻した。小獣は抗議の鳴き声をあげるが、それはか細い紙を裂くような音だった。リトは自分の手の冷たさを思い出す。前に使った生体譜の代償で、指先の感覚が鈍りかけていた。まだ戻るかもしれないが、次に使うときは戻らない気がしていた。だからこそ、彼女は今日、使わない選択をした。

「証拠を持って帰る。糸の形を写すんだ」リトは声を低くし、板切れと墨を取り出した。カイがぽんと小さな箱を差し出す。彼の手には採取した水の入った小瓶と、苔の切れ端がある。リトはネブラが示した銀灰色の線を、板の上に細く写し取ろうとした。糸の走り方、分岐の角度、いくつかの細流が合流する点。視覚では少ししか残らない情報を、彼女は前世の記録術で補い、誰でも検証できる形にするつもりだった。

カイは慎重に水を注ぎ、小さな試験容器に入れ替えて匂いを嗅いだ。薬草鍋の経験が働く。彼は唇を噛んでから、淡い色の粉を小さじ一杯、容器へ落とす。薬