獣灯りの聖域医師 第3話「第二章」
朝が湿った風を連れてくると、神殿の作業場はいつもの静けさを失っていた。わら床に敷かれた麻布が何枚も剥がされ、元あった薬草の匂いに、蒸気と獣の吐息が混じる。リトはまだ小さな体だが、前世の記憶が指先を動かす。診察台の代わりに置かれた作業台に、角獣の毛が散り、口のまわりに浮いた青い斑点が朝の光に冷たく光っていた。
朝が湿った風を連れてくると、神殿の作業場はいつもの静けさを失っていた。わら床に敷かれた麻布が何枚も剥がされ、元あった薬草の匂いに、蒸気と獣の吐息が混じる。リトはまだ小さな体だが、前世の記憶が指先を動かす。診察台の代わりに置かれた作業台に、角獣の毛が散り、口のまわりに浮いた青い斑点が朝の光に冷たく光っていた。
「数を増やすわよ。順番に見る。呼吸、食べたもの、水の出所、発症時間をね」
リトは声を張り上げるのではなく、短く確かな言葉で指示した。十歳の身体をした声に、三十歳の獣医の冷静さが載る。カイは角ばったナイフで木の板を削り始め、オルドは出入口にかける小さな札を用意し、ミナは毛布を畳んで寝台の枠を作った。
「印を決める。家ごとに一つの記号、樽なら丸に縦線。いつ飲んだかは点の数で示す」
カイが刃先で器用に線を刻む。前世のリトは走り書きのカルテで夜を明かした。ここでは文字が通じない家もある。カイの絵記号は、字が読めない者にも伝わる。オルドは各戸を回り、耳の近くで言葉を聞き取っては、リトに向けて手早く報告する。ミナは外へ出て、井戸の水を持ち帰ってくる仕事に戻った。動きは分業に落ち着き、混乱は秩序へと変わっていった。
最初に並んだのは三頭の猶予期の牛だった。舌が乾き、目の輝きが鈍い。リトはそっとそれぞれの胸に手を当て、息のリズムを確かめる。前世で何度もやった作業だ――聴診器ではなく、掌で、鼓動と肺の響きを掴む。だがこの世界では、その響きはただの音ではない。リトには輪郭のある音階として届く。深い弦のような低音、濁った鈴のような金属音、ところどころに断ち切られた笛の短い断片。ひとつ一つを比べ、重なるものを見つけるのだ。
「この三頭、肺の低い弦が共通してる。だが二番目の子は血流が鈍い。腎に似た低音がある」
リトはカイに向かって言った。カイは木板に三つの印を並べ、リトが指す箇所に小さな線を追加していく。オルドがそっとメモを覗き込み、ミナが持ち帰った水の入れ物の匂いを嗅ぐ。匂いは変わらない。見た目も、表面は澄んでいる。だがリトの耳には、水を飲んだ直後に鳴る断続的な笛が、三頭とも同じタイミングで鳴ったのが聞こえた。
「飼料か水。それとも両方か」
リトの顔に集中の皺が寄る。前世の病院で培った癖はここでも無力ではない。原因を単独で決めつける愚かさを知っているから、彼女はデータを重ねる。発症時刻を比べ、どの家が同じ樽を受け取ったか、誰が同じ井戸の水を使っているか。木の板は次第に情報の網を描き始めた。線は増え、重なりがひとつの方向へ向かう。
作業台の隅、ネブラは紙の薄い羽を小さく震わせ、梁の影から小さな黒い目を光らせている。吸い込みたいような目で水桶の縁を見つめるが、リトに近づくとすっと袖に入ってきて、紙を擦るような高音を立てた。その音に、リトは一瞬肩を緩める。ネブラはこの場で便利な道具になるつもりはない。相棒は相棒として、限界を教えてくれる存在だ。
「使いすぎないで。さっきみたいに手が――」
カイが言いかけるが、リトは首を振った。前世の慣習で一気にすべてを聞き取りたくなる衝動がある。だが《生体譜》は万能ではない。音階を聞き比べることはできるが、それが治療法を用意するわけではない。診断は道具であり、治療は共同作業だ。
リトは一頭ずつ《生体譜》を通して輪郭を描く。左の雌牛の肺は深い弦が細く伸び、右の雄牛は同じ弦に加え鈍い鐘が混ざっている。時間の経過で鐘が濃くなるほど悪化は早い。そうしたパターンが見えたとき、彼女は手を止めて調合を制した。薬は対症を和らげる。けれど真の解決は原因の流れを断つことだ。
カイは薬草を煎じる。以前、リトが独りで夜を過ごした病院の台所を思い出して、煎じ方の温度と濃さを変える手順を口にする。「脱水があるなら薄めに、嘔吐があるなら少し塩を足して。体重を教えて。こいつは大きいから一人分は三杯、こいつは二杯だ」カイは体積を量る代わりに、木の匙で濃度を測る。リトは彼の手つきを見て、煎じ薬の配分表を頭に書き込む。自分の身体は小さいが、ここにいる仲間は彼女と同じくらい重要な指先だ。
そこへ人影が近づいてきた。背が高く、灰色の外套を翻す男。ヴァルグだ。彼の顔にはいつもの計算じみた笑みがなく、今日は村全体の秩序を守るべき者として歩幅を揃えている。それが余計に冷たさを増す。
「騒ぎすぎだ。お前たち、神殿でパニックを広げるな」
ヴァルグは木の板を見下ろすと、手を伸ばしてさらりと一枚を掴んだ。カイが咄嗟に体を寄せ、板を引こうとする。リトはその手を見て、静かに前へ出た。
「記録を隠す理由がどこにあるの? 誰がどの水を飲んだかは、これから人を守るためのものよ」
リトの声は穏やかだが、真っ直ぐだ。彼女の掌は、角獣の毛並みを撫でていたその手だ。ヴァルグは娘のような年齢の声を嘲笑うべきだと一瞬思ったかもしれない。だが木の板には丸印と点が並び、線が一つの井戸へと集まっている。誰が見ても、繋がりははっきりしていた。
「お前に何がわかる。祭りを止めれば、商いが破綻する家が出る。村の秩序を乱すような行為は許さん」
ヴァルグは板を振り、確信を揺さぶろうとする。周りの人々がかすかなざわめきを上げた。神殿に届く噂は、すぐに村の不安となって広まる。リトは冷静に板を引き寄せ、オルドに札を渡した。
「説明をする。私ではなく、事実がここにある。家ごとの記号で、誰がいつどれを飲んだか、何を食べたか。私は声が小さい。だから、皆が見える形で示すの」
オルドは木の板を受け取り、手の震えを抑えながら、それを掲げた。村人たちの視線が線へ集まる。刻まれた印が繋がる様子は、誰の手にも伝わる。ヴァルグは一瞬顔を曇らせた。彼が掌の中で握っていた証拠を、人々の前に晒されることを恐れていたのだ。
「だが偶然の線かもしれん。祭りの樽はどれも同じ製法だ。見た目で安全と判断するのは当然だ」
彼は言葉を重ね、安心を売る商売人のように振る舞った。だが木板の線は一方向を指している。ミナが遠くから手に持ってきた小さな瓶を差し出す。苔のにおい、その瓶の内面に張り付く淡い青い膜。匂いは僅かに鉄を含んだようで、村の井戸とは違う。カイはそれを嗅いで顔をしかめた。
「違う。加工場の水と同じ匂いがする」
カイの声に、人々のざわめきは小さくなる。ヴァルグは視線を逸らして、板を押し戻すように立ち去ろうとした。だがその動きは、今や村人の目の前での小さな逃げでしかない。
そのときリトは、自分の胸の奥に別の音を聞いた。角獣の群れから出る低い弦に、どこか遠くから繋がるような断片が重なっている。音が重なるとき、リトの頭はその重なりを「地図」に変える。だが重ね聞きは危険だ。前世の疲労で倒れた時のような、限界への衝動が胸をかすめる。彼女は一呼吸置いた。
「もっと詳しく聞く」
カイが薬草を煮る間に、リトは再び掌を獣に当てた。《生体譜》は開く。音は重なり、視界に薄い光が走る。家畜の音が重なって、木の板の線が強く色づいたように感じられる。その瞬間、世界がほんの少し遠くなる。左手の冷たさは既に日常の一部になっていたが、今度は耳の奥が静かに引き裂かれるように痺れ始めた。高い音が遠ざかり、聖鐘の細