空庭の種庫

空庭の種庫 第5話「第4章|空庭の種庫」

格納庫の外は、いつもより風が重かった。雲海の匂いが混じった雨が石畳を叩き、外套の縁を冷たく濡らす。ノアは濡れた髪を手で掻き上げ、方位器を掌に転がした。針は相変わらず北を差さず、毎朝と同じ枝を指している。彼はそれを見て、口元を歪めた。針の先は、今夜もあの樹根塔の方向を示している。

格納庫の外は、いつもより風が重かった。雲海の匂いが混じった雨が石畳を叩き、外套の縁を冷たく濡らす。ノアは濡れた髪を手で掻き上げ、方位器を掌に転がした。針は相変わらず北を差さず、毎朝と同じ枝を指している。彼はそれを見て、口元を歪めた。針の先は、今夜もあの樹根塔の方向を示している。

「評議会は、動かしていい顔をしてはくれねぇだろうな」とノアが呟く。船乗りの声はいつもより低く、いつになく慎重だった。だがその目は鋭く、空気の裂け目を読むように遠くを見据えている。

ミナは焼け跡の帳簿の残り頁を指で撫で、焦げた縁に残るひだを確かめていた。彼女の指先が触れるたび、頁はささやくように並んでいく。文字が消えたところで、重なり方が途切れ、くっきりと欠けた黒い穴が見えた。ミナの表情が一瞬だけ硬くなる。誰かが物理的に、記録の一つを抜き取った。地上の採取地に関するページだけがない。

「地上の記録を、誰かが持ち去った」とミナは言った。彼女の声は平静を装っていたが、その平静は氷のように冷たかった。「意図的だ。地上の座標を知られるとまずい人物がいる。或いは、知らせないほうが良いと判断した保存職人がいたのかもしれない」

リゼットは瓶を軽く揺らした。中の豆が小さく擦れ合い、群青めいた薄い光がちらついた。群青の光は、以前澄花として聞いた言葉を思い出させる。「守るだけでなく、返せ」。その言葉の意味を確かめるために、彼女はここにいるのだ──確信が体を満たす。

「なら、誰が持ち去ったかを探す。地上に行くしかない」リゼットの声に、乾いた決意が混じった。伯爵家の令嬢として育ったが、今の彼女は下級記録官であり、種を守る者としての責務があった。上司の目を気にしてただ帳簿を閉じることはできない。誰かが独占を企んでいるなら、それを潰すのが仕事だ。

ノアが舌打ちを一つして、格納庫の奥の扉を向いた。「この雨じゃ評議会の監視も少しは緩む。降下船の整備は急げる。鍵の位置は――言った通り、俺が預かってる。だが地上は簡単に手放す場所じゃねぇ。外套を着込め。船の連中は目が利く」

ミナは頁を抱え、棚の一隅に残る最古の瓶を取り上げた。蓋には三本線が刻まれている。彼女の指先がその白い蓋に触れたとき、僅かに震えが走るのをリゼットは感じた。古い分配印だろうか。ミナの顔に、かすかな何かが浮かぶ。

「これ……」ミナが口を開く。「私の一族は、地上の保存職人の末裔よ。文字だけじゃなく、瓶の重さや振動で記録を残してきた。あの三本線は、単なる印ではない。『三つに分けよ』という古い分配の約束だ。だが約束は守る者があって初めて意味を持つ」

リゼットは蓋を指で撫で、左手の指先で三度、そっと叩いた。小さな音が乾いた庫内に響く。叩くたびに、胸の中で何かが引き締まった。彼女はまだ発芽簿の力を本格的に使う覚悟は決めていない。けれど三度叩く所作は、決意を形にするための、自分への誓いでもあった。

そこへ物音がした。格納庫の外、雨に紛れて足音が近づく。ノアが素早く矢のように扉へ走り、鉄扉に耳を当てる。静かな緊張が四人の間に広がった。扉の外には、評議会の巡回ではない、もっと個人的な音が混じっていた──人間の叫び、そして遠くで聞こえる鎖の擦れる音。

「囚われの声だ」ノアが低く囁く。「港の倉から上手く逃げ出した奴が捕まったらしい。密輸の疑いってやつだ。名は……サジュ、だって話に上ってた」

リゼットの胸が跳ねる。地上に残る地下畑の位置を知る最後の案内人、という噂が耳に入っていた名だ。サジュという少年が、灰砂海の罅割れた町で生きていると聞くと、彼女の中で前世の澄花としての好奇心が疼いた。廃棄寸前の在来種を守ったことと、地上の保存職人たちが密かに種を守っていたこと。それらは繋がっているはずだ。

「行くわ。助けましょう」ミナが言った。その声に迷いはない。頁と瓶を抱え、彼女は靴を踏み鳴らして歩き出す。たとえ文字が消えようとも、瓶の歌は消えない。ミナの信念が、今は何より頼もしい。

ノアは短く笑った。「いいな。なら船を出すのは俺の仕事だ。外は嵐だが、雲海の裂け目を通れば視界は利く。だが気をつけろ。評議会の手先が港に潜んでいる。君たちの顔が帳簿に載ったら、ただじゃ済まねぇ」

四人は外套の襟を立て、格納庫を後にした。雨が彼らを包み、雲の匂いが濃くなる。灯のない港は暗く、人々の影が濡れて鈍く光った。倉の影から呻き声が漏れ、手錠に繋がれた少年の姿が刹那に見える。サジュは薄汚れた作業着を着て、泥にまみれていた。顔には憎しみと恐れが混じり、だが目は鋭く、こちらを逃がすつもりはない、と言わんばかりにこちらを睨んでいる。

「密輸の疑いで捕まったのか?」リゼットが近づき、声を張った。彼女は伯爵令嬢の装いを捨てていないが、その目は記録官としての硬い光を湛えている。手の中にある瓶を、彼は無言で見つめた。

サジュの口が動き、言葉が砂のように漏れた。「お前ら……空の奴らか。地上を見下ろして種を撒く連中だ。来るな。ここは空の偉い連中に関わる場所じゃねぇ」

ミナが一歩前に出た。「私たちは奪いに来たわけじゃない。記録を取り戻したいだけ。地上にある畑を、誰に、どう返すかを知りたいの。帳簿の穴を埋めるために。種は土に帰るものよ」

サジュは笑ったように息を吐いた。「そう言う奴は山ほど来た。種をくれ、耕せ、恩を返せって。しかし空は高い所から話すだけで、手を汚さない。俺たちが死ぬ時、誰が種を抱いて死んだか、知らないくせに」

リゼットの胸が締め付けられた。澄花としての記憶が、かすかな輪郭となって覗く。保存職人たちが土に埋もれて種を守った夜。誰かが命を賭けて一粒を守ったこと。その重さが、今ここにある。

「私たちは違う」リゼットは静かに言った。「私は記録官で、名前を帳簿に残す人。けれどそれだけじゃない。種を返すというのは、土の上で人が選ぶこと。あなたたちの選択を奪ったりはしない。もし場所を教えてくれるなら、私たちは種を取り戻して直接返す。奪わない。手を出さない。約束する」

サジュの眼が揺れた。彼は短く笑い、そして顔を顰めた。「約束ってのは、言葉でしかねぇな。だが……お前、令嬢だろ? 言葉は重そうに見える。証明してみせろ」

だがその時、港の影から鉄の装甲を纏った兵士が姿を現した。黒い紋章の入った腕章が光り、群衆の間を割って近づいてくる。評議会の巡査だ。彼は巻き込まれたように見えたが、その手には書類の束があった。書類の表紙にはリゼットの名が印され、赤い印章が鮮やかに押されていた。

「リゼット・アルカ、王立種庫の下級記録官。種子窃盗の容疑で指名手配。現行犯を確保する」兵士が低い声で告げる。彼の目は冷たく、義務の重さだけが漂っている。

リゼットの心臓が跳ねる。彼女は瓶を抱きしめ、群青の光が薄く揺れるのを感じた。左手の指先が自然と蓋へ触れ、三度、いつものように叩いた。その音は小さく、だが決意を示す鐘だった。彼女は言葉を失った澄花の顔を思い出したくて、指先が震えた。しかし記憶はまだ、彼女の内側で揺れ動くだけで形にならない。

ノアが鋭く前に出る。風読みの若者の顔に、怒りが浮かぶ。「おい、待て。何の証拠だ。ここにいる奴らが何をし