空庭の種庫

空庭の種庫 第3話「第2章|空庭の種庫」

雨はまだやまずに、外套の裾を濡らしていた。種庫の石造りの廊下には、潮のように湿った冷気が差し込み、灯りの橙が濡れた床に淡い円を描いている。リゼットは袖の中で、灰色の瓶を確かめるように抱きしめた。蓋には三本の浅い傷。澄花だった頃の残響が胸の中で細く鳴るたび、指先は無意識にその傷を探してしまう。

雨はまだやまずに、外套の裾を濡らしていた。種庫の石造りの廊下には、潮のように湿った冷気が差し込み、灯りの橙が濡れた床に淡い円を描いている。リゼットは袖の中で、灰色の瓶を確かめるように抱きしめた。蓋には三本の浅い傷。澄花だった頃の残響が胸の中で細く鳴るたび、指先は無意識にその傷を探してしまう。

倉庫の北側の大扉を押し開けると、風読み船の格納場が見えた。帆柱に打ち付けられたロープの軋み、潮の匂いを含んだ風、雲海を削るような低い空気の音。そこに立っていた一人の青年が、昼の雨に濡れながら小さな方位器を拭いていた。彼の肩の幅、乱れた栗色の髪、掌の傷の入り方。運搬人――ではない。リゼットはその目を見て、初めてその青年が風読み士だと気づいた。

「ノア・フェルドか」と、彼は言う。声は粗く、だが不躾な人間臭さがあった。
「ええ、そうです。リゼット・アルカ。王立種庫の――」
「記録官の?」ノアは片眉を上げた。方位器の短い針が、北を指すべき位置から僅かに外れている。彼はふと、その針の先を見つめると、軽く笑った。「その針は北を知らない。毎朝、同じ枝を指すだけだ。樹根塔の、あの枝だろう?」

リゼットの心臓が跳んだ。昨夜、運搬人が言った言葉がまだ耳に残っている。方位器は北を指さず、何か別の“場所”に反応する——彼女はその“場所”を、記録の下降線と結びつけたばかりだった。だが今、目の前で同じ器具を持つ者が、はっきりとその枝を示す。ノアの指先は無造作だが確かで、針は枝先を捕らえたまま微動だにしない。

「地上の花粉だろう」とノアは針先をポケットに隠し、肩越しに倉庫の外を見やった。「花粉は空気の道を作る。その道を読むのが、風読みの仕事だ。だが、お前みたいな貴族が、種のことでうろつくのは珍しい。名簿にないか、噂に付いて回るか――どっちだ」

リゼットは頬を引き締めた。肩書きは盾にも檻にもなる。だが彼女は記録官であり、目に見える数字の異常を無視することは出来なかった。「私は……帳簿に気づいたの。魔麦の発芽率が毎年下がっている。測定誤差では済まされない線がある。上司は誤差だと片付けたけれど、根脈が単調化している可能性がある。樹根塔の信号が、同じ交配の繰り返しにしか応答しなくなるんです」

ノアは肩越しに彼女を見つめ、指先で地面の濡れた砂をすくうようなしぐさをした。「数値だけじゃ、人は動かせない。だが鳥は正直だ。風に逆らうなら、群れは教えてくれる。連れて行け。船を借りてもいい。ただし、うちの者たちが作る分け前は守れ。約束を破る奴には舵を取らせない」

言葉の節々に、不信と矜持とが混ざる。リゼットは一瞬ためらった。種を分配する――それは彼女の手柄を差し出すようでもあった。だが彼女は袖の中の瓶を確かめると、静かに左手を伸ばした。指先で瓶の肩を三度、軽く叩く。習慣だった。澄花としての深い習癖が、無意識の所作として残っている。三度の音は廊下に小さく跳ね返り、ノアは目を細めた。

「やめろ」と彼は言った。「そんなことを、弱い女が見せびらかすのは好きじゃない。力は人を孤独にする。だが、お前はその癖を隠そうともせずにいる。理由があるんだろう」

リゼットは自分が何を失うかを考えた。発芽簿の力を浪費して、何度も記憶を削れば、前世の自分と今の自分が混じり合っていく。誰の顔を守りたいのか、その輪郭まで消えてしまうかもしれない。だから彼女は必要最小限の情報しか吐かないと決めていた。魔麦の減少を示す帳簿のページは見せられる。だが、未登録の在来種の鑑定は、記憶を一つ差し出す代価を伴う。まだ、代価を払う時ではない。

「私がほしいのは、一隻の船です。地上へ降りるための――禁じられた降下船を使わせてほしい。種を返すために」言葉を選んで、リゼットは言った。「孤児院や小さな村へ直接、種を渡す。評議会が盗難だと言うなら、それでも構わない。種を、土に返したいだけです」

ノアの目が暗くなる。彼は海面を見下ろすように、雲海の波間をしばらく眺めていた。そしてつぶやくように言った。「お前の言う“返す”が本当ならいい。だが評議会は力を持っている。あの連中は種を道具として握る。分け前を守れと約束したら、ただの乞食を助ける気持ちだけじゃ通用しない。信用を裏切ると、風はお前の名を運んでくるぞ」

「裏切りはしません」リゼットは肩を張って答えた。自分を信じろと自分に言い聞かせるように。それでも、心のどこかで不安が蠢いた。信頼――それは彼女がこれまで帳簿にしか預けられなかったものだ。

ノアは黙って方位器を振る。針は相変わらず同じ枝を指し、その先に何かを待っているようだった。「俺が手伝えるのは、船と風路だけだ。地上で何をするかは、お前次第だ。だが安全だとは言わない。降下船は禁忌だ。海軍に見つかれば、一瞬で喰われる。けれど、潮と風が味方すれば、不可能は少し減る」

リゼットは息を吸い、雨の匂いと海の味を胸いっぱいに取り込んだ。誰もが危険を避けたがるときに、種を分けることを選ぶ。それが自分のすべきことだと、胸の中の澄花の響きが囁く。だが行動には代償が常に付いてくる。彼女はそれを知っていた。

「あなたは、どうしてそんなに樹根塔の枝を気にするの?」と、リゼットは訊ねた。方位器が指す枝は、倉庫の外に聳える巨大な樹根塔の一つの側枝だ。単なる目印ではないはずだ。

ノアは地面に跪き、掌で泥を掬った。指の間から滴る水を見つめ、ゆっくりと答えた。「あの枝が、毎朝俺たちに道を示す。花粉の流れが、固まるか散るかを教えてくれるんだ。北を示す羅針じゃない。風の道、花粉の道、そして、――根の声だ」彼は小さく笑った。「お前にはそれが数字の問題に見えるだろうが、俺には鳥がそうしたのと同じに見えるんだ。あの枝が時々、羽の合図みたいに揺れる」

そのとき、低く空を切る羽音が聞こえた。数十羽の小さな鳥が雲の縁を抜け、急に進路を変え、格納場の端を迂回していく。群れの動きは自然より鋭く、まるで電流に触れたようだ。ノアは手を伸ばし、針を空へ向けながら言った。「見ろ。風は何かを避けている。樹根塔のあの枝の前だけ、空気が乱れている」

リゼットは鳥の群れの挙動を見つめ、胸が暖かくなるのを感じた。帳簿の下降線と、鳥の警戒、方位器の針——すべてが同じ方向を指している。ノアの言う“根の声”が、彼女の数字の不安を裏付けていた。言葉は不完全でも、現実は正直だ。

「わかった」ノアは立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。「俺は昔、地上へ降りたことがある。禁じられたものじゃないわけじゃないが、道具はある。だが船を貸すのはただじゃない。お前が評議会の手先で、俺たちの家畜や子供たちを危険に晒すようなら、俺は舵を折る」

リゼットは小さく笑って、瓶をノアに見せた。三本の傷が雨に濡れて黒くなり、ひときわ目立つ。「これを見てください。古い分配印だと、誰かが囁いていました。もしかしたら、捨てるべきでない種の印かも知れない。私はただ、これらを返したい。地上の誰かが土に触れて、芽を見たいだけです」

ノアの指が、その白い蓋の傷に触れた。指先は不意に止まり、まるで冷たいものに触れたかのように僅かに震えた。「三本線か……」彼はぽつりと言った。「俺たちは、空