星商いの夜

星商いの夜 第1話「序章|雨の向こう側」

会社の最後の夜は、書類の紙臭さと蛍光灯の青白い冷たさしか残してくれなかった。真壁透は、その光の下で一枚の紙を指でなぞった。夜空の権利証――と、そんな文字が印刷された薄い証書。そこに押された印影は、いくつもの会計スタンプと同じ色で、泥のようににじんでいた。彼は突発的に笑った。会計士が扱うのは数字だけではない、という冗談じみた自嘲が胸を通り過ぎた。

会社の最後の夜は、書類の紙臭さと蛍光灯の青白い冷たさしか残してくれなかった。真壁透は、その光の下で一枚の紙を指でなぞった。夜空の権利証――と、そんな文字が印刷された薄い証書。そこに押された印影は、いくつもの会計スタンプと同じ色で、泥のようににじんでいた。彼は突発的に笑った。会計士が扱うのは数字だけではない、という冗談じみた自嘲が胸を通り過ぎた。

帳簿の隅に、毎年同じ日に計上された「空白星」という勘定があった。誰のものでもないはずの数字が、いつも決まって同じ日付で増えている。透は電卓を叩いた。数式は嘘をつかない。だが、誰もが見て見ぬふりをしてきた数式は、そこに人の生活を隠していることを、透は知っていた。彼の仕事は、それを切り分けて、どの資産を誰に割り当てるかを決めることだった。

「買い手がつかない資産は、会社の負債だ」

そう自分に言い聞かせ、彼は最後のチェックを終えようとした瞬間、胸が鈍く裂けた。目の前の証書の上に、暗闇のような冷えが瞬間的に押し寄せた。数秒後には、透は床に崩れ落ち、蛍光灯の光が遠くなっていくのを見ていた。最後に見たのは、手に握りしめた小さな荷札の角が、焦げて黒ずんでいることだった。

次に意識が戻ったとき、風は砂の匂いと、煤と香辛料の混ざった匂いを運んでいた。夜は厚く、空は低かった。彼の手には、焦げ跡のある小さな布切れがぎゅっと握られていた。焦げ跡の傍らに、かすれた活字で前の会社の名が半ば残っているのを見て、透は自分が「死んだ」のだと理解した。だがそれは、彼がこれまで抱えてきた意味を奪い去る以上の転生の始まりでもあった。

黒曜砂漠の夜は、都市のそれとは違った鮮烈さがあった。星が光ではなく、瓶や玉、彫り物の中に保存されている。夜市は国境を持たず、砂の上に並んだ屋台が星を売り買いする黒曜市――そこには王侯の使い、神殿の巡礼者、旅人、盗賊、そして小商人が混ざっていた。店の明かりは裸火で、星瓶の中の光は目に見えない記憶の震えのように揺れる。透はその景色に、会計書の行と列を重ねた。ここでもまた、何かが帳簿によって切り分けられている。

「おい、動いたぞ」

小さな手が彼の肩を掴んだ。引き上げられるようにして立った透の顔に、砂と夜露が張り付いた。少女の顔は日焼けた頬に赤い布の値札を結んでいて、目が鋭かった。肩にちょこんと座るのは、半分生き物で半分は焚き火のような小竜だった。目をつぶると、透の中で忘れていた会計の癖が動き出す。数字を並べると、人物の顔が見える。彼はその顔を守るために何を残し、何を切るかを決めていた。

「仕事は? 大丈夫?」と少女が訊いた。声には訛りがある。透はしばらく唇を動かせなかった。自分の名を言うべきかどうか、どれだけの説明をすればいいのか、彼の頭の中で帳簿が再びめくれていく。

「真壁……透、です」そう答えたとき、少女はにやりと笑って、名札を引っ張り出した。「深刻な名だね。ミナっていうの。ノクスもよろしく」

小竜がほとんど音もなく、赤い値札を齧り、ぺっと吐き出した。値札の裏には殴り書きのような線と、色とりどりの小さな落書きがあった。透は、焦げた荷札の文字が妙に馴染んで見えた。前世の会社の名と、この夜市に流通する由来が、どこかで繋がっている気がした。

ミナの屋台は、瓶が並ぶ棚だった。手作りのコルク栓、錆びた金網、漆喰の缶。透は、自然と棚に手を伸ばした。指先が触れたのは、澄んだガラスの小瓶。中には星屑が丸まったようなものがふわりと浮かんでいる。触れた瞬間、視界の奥に群青の天秤が立ち上がった。

天秤は片皿に小瓶を乗せ、もう片皿には誰かの顔を乗せる。顔は一瞬のうちに三つ、浮かんでは消えた。文字が滲むように現れては消える。「本来の用途」「過去三人の所有者」「次に失われるもの」。透はなぜか、問いを投げかけるように頭の中でつぶやいた。すると、天秤の下に小さい字で規則のようなものが現れた。「署名は真本名で。虚偽一つで記憶一つ消ゆ。禁止:無料譲渡、無断瓶割り、二重販売」。冷たい肋骨に触れられるように、会計士としての理屈が魔法の文句と重なった。

「見えたね?」ミナが驚いた様子もなく訊いた。「触るだけで出るの? この町じゃよくあるけど、初めての顔だと毎回びっくりするよ」

透は天秤から視線を外せなかった。天秤の「次に失われるもの」という欄には、黒い文字でひとつだけ書かれていた。自分には不可解な言葉だった。母の顔、という四文字が、黒い塊になって、彼の胸の辺りから引き剥がされるような感覚がした。暖かい記憶が、氷の針で刺されたように薄れていく。彼は咄嗟に目を閉じ、手を引いた。

「やめて! 痛い? ごめん、ごめん、触ったからだよね」

ミナの手が慌ててガラスの瓶を元の場所に戻す。ノクスがもう一度何かを吐き出した。吐き出したものは、赤い値札の裏側――ただの落書きに見える。しかし透は、自分の手の中に残る焦げた荷札と、その裏の跡を見比べた。燃え残った紙の端には、見覚えのある活字があった。彼は自分が前の世界で握っていた帳票の一片を、ここで持っている。世界が繋がっているらしいことを、彼はまだ理解できないでいた。

「ここでは星は、光じゃないんだよ」とミナは淡々と説明した。「記憶だったり、方角だったり、季節だったり。誰かの願い。売る人も買う人も、それが何をするか分かってる。だから約束が大事だ。契約に嘘があったら、代わりに何かが消えるって聞く。どんな嘘かは知らないけど、消えるんだって」

透はその「聞く」という言葉に引っかかった。彼の頭の中では、過去の倒産処理の場面が反復した。帳簿は、人を切り捨てるための道具にもなり得る。彼は人生の大部分を、数の向こうにいる人間を無視してきた。仕事は、誰かの悲しみを整理する術だった。だがこの夜市は、数字の裏にある表情をそのまま瓶に封じ、代償を要求していた。

「君は会計士だったそうだね」ミナは透の手元をじっと見た。「そんな顔に荷札を握らせてるノクスは、面倒見るのが得意なんだよ。いいことも悪いことも吐くからね。裏側だけを。だから、ここじゃ由来って大事にされる。発見した順序とか、誰が最初に見たかとか。それが、所有者の名前より時々重いんだ」

ノクスが吐いた裏札には、乱雑な線と子どもの手の走り書きのような落書きが幾つも重なっていた。透は、かすかな既視感を得た。それは前世の帳簿にあった「空白星」の欄と似た、空欄の匂いがした。そこには「誰でもないが誰かのものでもある」余白が残っている。

「触れるだけで見えるんだ。使い方を聞かなくても?」透は訊いた。天秤の視覚はまだ消えていない。群青の色は瞼の裏で微かに揺れている。

「聞かないとダメなこともあるよ。売るときは必ず名前を入れなきゃ。で、その名前が嘘なら、帳簿は罰をくれる。記憶が一つ消える。大事なことは、ここでは誰かの『これを守りたい』って意思が一番の通貨なんだって、いろんな人が言ってた」

ミナの口振りは軽いが、目は真剣だった。ノクスは値札の裏を舐め、紙を折り畳むと、まるで満足したように火の粉のようなものを少し吐いた。ミナはその火粉を嬉しそうにこすり取って、彼女自身の赤い値札布につけた。値札は風がなくてもふわりと揺