獣廷書記 第5話「第5章|獣廷書記」
夜風が村の石畳を滑り、油のように黒い水が静かに揺れている。月は地下にあっても遠くから光を差し、屋根の隙間に冷たい筋を作った。台帳を包んだ布は、両端を結んだロープの重みで震えている。私はその包みを抱えながら、左手の親指を無意識に紙の角へと押しつけた。いつもの癖だ。力を入れると皮膚がわずかに白くなり、親指の腹に古い圧痕が残る。誰かの目には単なる監査官の反復行為に見えるだろうが、私にはその押し当てが決意のようにも、あるいは最後の頼みごとのようにも感じられた。
夜風が村の石畳を滑り、油のように黒い水が静かに揺れている。月は地下にあっても遠くから光を差し、屋根の隙間に冷たい筋を作った。台帳を包んだ布は、両端を結んだロープの重みで震えている。私はその包みを抱えながら、左手の親指を無意識に紙の角へと押しつけた。いつもの癖だ。力を入れると皮膚がわずかに白くなり、親指の腹に古い圧痕が残る。誰かの目には単なる監査官の反復行為に見えるだろうが、私にはその押し当てが決意のようにも、あるいは最後の頼みごとのようにも感じられた。
「ここで待機する」リュネが短く命じた。翼獣の騎士は石畳の端に立ち、腕組みをして辺りを見回す。彼の羽毛は夜露に濡れて光り、いつもの冷たい表情が薄く緩むことはない。だが彼の目は警戒心と責務で鋭く、焼却炉へ向かう最後の道筋を確かめる者のようだった。
ガラムは静かに布の端を撫で、石の掌を貸すように台帳の上へ手を置いた。彼の皮膚は本当に石みたいで、夜風に当たる部分がほのかに冷たい。刻まれた判例の縦線が腕に伸び、指先でそれをなぞると、擦れる音もなく古い秩序が震えるように思えた。
「触ってくれ」彼は低く言った。「スミ、あなたが声になって。私はあなたの声の振動をこの身に刻む。人は文字で証拠を作る。でも私みたいな者は、触れられた音の痕でしか証人になれない。もし誰かが後で『書き換えた』と言うなら、私の皮膚が否定するだろう。私は文字を読めないが、覚えることはできる」
私は息を飲んだ。彼の提案は、私がいつも頼りにしてきた"文書そのもの"とは別の保存法だ。原本を封じたまま、言葉を声にした瞬間の振動を、物理的な記憶へと置き換える。禁則に抵触するように聞こえたが、よく考えれば違う。私が照合してしまえばその文書は以後燃やせないという規則がある。だがガラムの身体に触覚として刻むことは、原本を改竄する行為ではない。石人の証言は、それ自体が物証になり得るのだ。
「私の声が、あなたの石の中に残る」私は静かに言った。それは決意にも似た囁きだった。公判の場で読むべきは、事実そのものではなく、誰がどのようにして事実を差し替えようとしたかを示すことだ。欠落は穴であっても、その周辺に残る擦過痕があるはずだ。ガラムは自分の胸元を軽く叩き、縦線をもう一度撫でた。彼の動きには意志が宿っている。
「だが、読み上げは慎重に」ミルザが遠くから言った。その老判事は石造りの家の影に立ち、薄暗い顔で私たちを観察している。彼がいつも文の末尾を飲み込む癖を持っているという話はここ数日のうちに私の耳にも届いている。ガラムが言うように、音の刻みと末尾の砕け方が証拠の一部になるのなら、ミルザの欠字もまた重要な指標だ。
「公判で読み上げるなら、その場で私が声になる。台帳はそのまま提出する。誰かが夜中に手を入れられることを最小限にするため、さっきのように厳重に包んでおく」私は言葉を選んで、布をぎゅっと固く結んだ。左手の親指がまた角を押す。押しつけるとどこか遠い映像が耳の裏で震えるような気がしたが、それはすぐに消えた。消えるたびに、何かが私の中で薄れていくのだろうか、という不安が心の縁を掠める。
ネネは小さく鼻を鳴らして、私のそばへ寄って来た。夢喰いの子どもは夜の匂いを吸い込みながら、自分の小さな靴を覗き込む。靴の中には黒い砂が一粒、白い縫い目にくっついていた。彼女はその砂を指先でつまみ、目を細めて眺めた。
「夢の中は、いつも砂があるの」彼女は説明するように言った。「消された者の夢だけ、靴の中に一粒ずつ出るの。だから私はそれを拾って、靴の中へ入れるの。忘れたくないからじゃないの。忘れないようにするために」
ネネの声には子供らしい軽さがあるが、同時に何か冷たい成熟も混じっている。彼女はここ数日の間にどれほど多くの悪夢を食べただろう。私たちは証拠としてその夢を利用してきた。彼女が夢を食べると、夢の持ち主は楽になり、悲しみは薄れる。だが夢を食べられた人の感情もまた、二度と同じではない。
「村長の夢を食べたとき、彼はその日の夜に井戸を破った兵の顔を忘れてしまった」ネネがぽつりと言った。「彼は楽になった。でも私も、少し彼を嫌った。食べると、感情が薄れるの。便利だけど、私はもう自分のところに戻って来る何かを失っている」
ネネの言葉が静かに響いた。私は頭を振って否定したくなった。証拠のためなら、彼女の能力を頼るのが最も手っ取り早い。だがその手段は倫理的だろうか。彼女にとって「楽になる」代償は、自身の情感が削られることだ。夢喰いは他者の悪夢を食べることで存在を保つ種族だが、代償はいつも一方的だ。彼女が笑っているように見えても、その笑顔の裏に空虚が広がっている。
「ネネをこれ以上、証拠供与の道具にしてはいけない」私は即座に言った。「彼女は証人ではあるが、それは彼女自身の身体と感情を消費して得られるものだ。私たちは彼女を守りながら、夢の内容をどうにか取り戻す方法を見つけなければならない」
ガラムが小さく唸った。「夢を保管することはできないのか。石の粉に混じって落ちる黒砂を、私が触れて順序を覚えれば——それで誰の夢か分かるのなら、ネネは永遠に喰い尽くさなくて済むのではないか」
リュネは鋭く舌打ちをした。「夢を紙に書き写すのか。そんなことが許されるのか?」
私は首を振った。「違う。書き写すのは原本の複製だ。私たちのやってはいけないことの一つだ。だが、黒砂一粒ごとに誰の夢から出たかを記すこと、あるいはその砂を水鏡に垂らして映像を確認することはできるかもしれない。ネネが夢を返すことが可能なら、本人が自分の夢を語ることで元の感情を取り戻す手助けができる」
ネネはそっと靴を脱ぐと、黒砂を掌に乗せて見せた。砂は夜のように艶があり、指の腹に冷たくへばりつく。彼女はその砂をポケットにしまった。動作の端々に子供の躊躇いと決意が混じっていた。
「砂を食べてもいいの?」とネネが尋ねる。問いは小さく、歪んだ期待のように響いた。
「今は違う」私は答えた。「私たちはこの村のことを、改竄された台帳を含めて、公の場で明らかにする。それが正しい方法だ。ネネ、あなたは証言の形で私たちの味方になって。夢を食べるかわりに、夢の持ち主にその夢を語らせるよう導いてくれないか。もしあなたがそうできれば、あなたの感情は失われないで済むかもしれない」
ネネは少し眉をひそめ、そしてうなずいた。小さな決意の表情だった。彼女は夢喰いとしての本能と、仲間としての役割の間で板挟みになりながらも、私たちの提案を受け入れた。リュネは短く頷き、警護の輪を鈍く固めた。ガラムは既に台帳の布をめくる段取りを考え、指先を動かしはじめた。
「私が先に触れる」ガラムは言った。「スミ、あなたの声が必要だ。あなたが台帳を読み上げれば、私の腕はその振動を記憶する。だが、全文を声にするのはここではなく、判廷でだ。今は表面の封印痕だけを触れる。そこに誰かが物理的に差し替えをした痕跡があるなら、私の手で確かめよう」
私は布を少しだけ解いて、端からほんの二センチだけ台帳の頁を見せた。そこにかすれた朱の紋と、古い紙の端に繰り返された押印痕——角に残る押印が、私の指先に呼びかけるように見える。