獣廷書記

獣廷書記 第12話「第19章|獣廷書記」

水盤の波紋が次第に収まると、判廷の薄明の中でひとつの音だけがはっきりと響いた。私の指先が紙の角のへこみを確かめるときにだけ、世界がもう一度自分を識るような、そんな小さな鈍い音だった。

水盤の波紋が次第に収まると、判廷の薄明の中でひとつの音だけがはっきりと響いた。私の指先が紙の角のへこみを確かめるときにだけ、世界がもう一度自分を識るような、そんな小さな鈍い音だった。

「台帳の端が地上へ繋がっている」——自分の声で言っても、それが現実になるとは思っていなかった。だがヴァルグが水鏡で示した兆候と、私が前世で抱えていた原本の筆跡の感触が、今やひとつの線上に並んでいる。感情は混ざっていた。恐れと好奇、怒りと責任。三十七歳の監査官として培った執着が、今は少女の身体の中で静かに脈打っていた。

「行こう。まずは端末を探す」リュネの言葉は、いつものように短く、しかし決意を帯びていた。翼が小さく震え、羽に残った水滴が銀色の涙のように落ちた。彼の視線は外の空へ、地上の方向へ向いている。いつか彼が人間の側によせる不信は変わるだろうか。私はそのことを考える時間を許さず、自分の右手で文鎮を押しながら紙を裏返した。

白い頁面は空虚だった。だが白はただの無でなく、余地を意味している。私の左手親指のへこみが、長年培った習慣以上のものになったのはいつからだろう。監査の現場で何千枚とめくった角を押さえる指先。無意識の確認作業。それがここでは召喚式を閉じる——欠落文字の形をした印だった。思えば、不思議な一致は序盤から積み重なっていた。だが確証を得るためには、地上の端末に触れ、そこで声を上げる必要があった。

「地上の端末はどう探す?」ガラムが低く呟く。石でできた声は紙よりも鈍く、しかし確かに重かった。彼の掌は今日も腕の判例を撫でている。刻まれた文字は彼の記憶であり、読めない代わりに触れて覚えるための道具だ。彼の手が撫でるたび、石の表面に粉が出てくる。触覚で記憶を伝播させる者がいる。私はそれがどれほど貴重かを、ここにいることで学んだ。

「私の前世の会社を調べるしかない」私は言った。言葉を出すたびに、原本照合の感覚が胸の奥で疼く。あの改ざんされた監査原本は、ただの不正会計の証拠ではなかった。底環の判決台帳と同じ筆跡があったという事実を初めて自分の耳で言葉にする。そのとき、ミルザの顔に一瞬の影が落ちるのが見えた。彼は判事であって守秘の多い人間だ。だが今は判廷の外に出る決意を共有する者――それだけである種の赦しが始まる。

ネネは靴先を見下ろしていた。黒砂が小さく塊になり、ひとつ転がるとまた膝の皺に落ちた。彼女の瞳にはいつも通り、まだ幼い好奇が宿っているが、その横に恐れも見える。夢を返す行為が、どれほど人を傷つけるかを覚悟しているのだ。私たちが求めるのは物的端末であり、同時に名前を取り戻す儀式でもある。誰かの名を呼ぶたびに、ネネは一粒の砂を拾い上げるだろう。

「あなたは本当に、選ばれたのか」ヴァルグの声は水音のように淡々としていた。彼の鱗は濡れ、老いた肌は光を吸い込んでいる。水鏡は彼にとって自分の内側であり、それが外界とつながる窓でもある。ヴァルグは私の左手の親指を見つめ、そして少しだけ笑った。

「あの雨の日、名前を呼んだのは誰かを選ぶ仕組みの一端だった。選ばれたというより、原本自身が選んだ、と言うべきだろう。音声でも、血でもなくて、紙の角のへこみだ。お前の指先のかたちにあった欠落文字が、封を閉じる鍵になっていた」

その言葉は冷たかった。選択の主体が自分ではないという感触は、監査官時代の私を震えさせた。監査官は証拠を追い、事実を問う人物だ。だがここで明かされたのは、私が裁く側に立つのではなく、書類そのものに召喚されたという逆説である。責任は重い。だが重さがあるなら、それを抱える作法もあるはずだ。私は自分の胸に手を当て、紙の角のへこみをなぞった。

「原本が選んだ、か」ミルザが小さく呟く。老判事の手が判事机の縁を掴む。長年欠字を守ってきた男にしては、珍しいほどの弱さがそこにある。だが彼の目は真剣だった。「選ばれたことをどう受け止めるかで、行くべき道は変わる。もし我々がただ道具を使われるだけなら、結局は誰かにまた名を消されるだろう。だが——もしその道具を我々が用いるのなら、名を取り戻す手段に変えられるはずだ」

私たちは互いに見つめ合い、沈黙を共有した。外では砲声がまだ遠くで鳴っている。地上の軍勢は底環の混乱を好機と見ているだろう。だがここで私たちがするのは武力行使ではなく、記録に声を取り戻すことだ。私は原本照合の能力を持つ者として、もう一度自分の役割を言葉にしたいと思った。

「証拠を集める。私が読み上げて筆跡の一致を確認する。そしてそれを公開する」私は声を強めた。「だが重要なのは、私だけで決めないこと。私が読んで見えた『白』は確かに欠落を示すが、その欠落を埋めるのは、生きている者の声だ。私たちはその声を連ねる。地上の端末に接続するには、まず現場を見つけ、端末の片を持ち帰る必要がある。そこに写った印章、署名、日付の断片を読み上げれば、連鎖が見えるはずだ」

ガラムがゆっくりと頷く。彼は言葉が少ないが、手が語る。手のひらに刻まれた判例の粉を指でこすり、私たちに渡すように差し出す。彼の行為は単純であるが、そこにあるのは信頼だ。彼は自分の記憶を削り、私たちの声に託す覚悟を見せている。

「行くなら準備をする」リュネが言った。彼は翼を広げ、判廷の隅に立つ。青い羽毛の先に、古い徽章が光っている。「地上へ行く許可は得にくい。だが移動のための文書、偽名、経路の確保は可能だ。私が連絡を取ってくる。だが気を付けろ。空白院の残党は地上に潜んでいる可能性がある。彼らは記録を操作することに長けている」

ネネは小さく息を吐いた。彼女の小さな手が黒砂を撫でるたびに、砂粒が話をするようにきしむ。夢を返す準備は進んでいる。ネネの手はふるえていた。恐怖が彼女を強くするのか、弱くするのかはまだわからない。だが彼女はもう一度夢の扉を開け、消された名を呼ぶ覚悟を固めている。

私たちはまず、地上での端末の場所を知る者を探すことにした。ミルザは自分が知っている古い書簡の写しを手に取り、それが示す座標を紙に描いた。そこにはかつて王都と地上都市を結ぶために設けられた中継所があったらしい。時代の波で廃墟となった施設の一つかもしれない。ミルザの手は震えていたが、線は確かだった。

「私が行く。だが一人ではない」私は言った。自分で決めていた。監査官時代、誰にも頼れないと思っていた自分を思い出す。あの孤独はかなりの痛みを伴った。だがここでは違う。私の失った記憶は戻らないだろう。代償は既に支払われた。三日分の過去が空白になったことを、私たちは静かに共有している。だが今は先に進むしかない。

ヴァルグが水盤に唇を寄せ、低く囁くように言った。「帰還者よ。だが帰る先は、お前が思う場所とは限らない。お前が選ばれたのではなく、文書が選んだというのなら、その文書に従うだけでは不十分だ。文書に声を与える者になれ。名を呼ぶのはお前たち自身だ」

私の左手親指が紙の角のへこみに触れると、へこみは冷たく、そして確かな存在感を持っていた。閉じられた式の印は、私の身体に残る痕となっている。私はその痕を腕の内側で押し、呪縛のように思えたものを自ら解放するような気持ちで息を吐いた。