星札の鉄路

星札の鉄路 第1話「序章|雨の向こう側」

夜の線路は、油の匂いと濡れた鉄の光でできていた。ホームの蛍光灯は雨ににじみ、傘の端から落ちる水滴がプラットフォームの縞模様を小さな波に変える。私はいつも通り、帽子のつばを軽く押さえた。習慣だ。つばを一度叩いて規則を確かめ、二度目に触れて相手の意思を尊重する——そこまでが長年の所作だった。

夜の線路は、油の匂いと濡れた鉄の光でできていた。ホームの蛍光灯は雨ににじみ、傘の端から落ちる水滴がプラットフォームの縞模様を小さな波に変える。私はいつも通り、帽子のつばを軽く押さえた。習慣だ。つばを一度叩いて規則を確かめ、二度目に触れて相手の意思を尊重する——そこまでが長年の所作だった。

「最終列車、終着まで停車はいたしません。お乗りの方はお早めにお戻りください」

車掌の放送がくぐもって、車内の雑踏は路面と同じリズムで揺れた。私は時刻表を胸に押し込み、ポケットの中の小さな工具を確かめる。真鍮の小さな穴あけ器。いくら古びていようと、刃先の冷たさは手になじんでいた。終わりが決まっている列車に持っていくには、少しだけ儀式めいている道具だが、手の重みが落ち着きを保ってくれる。

ホームの端、濡れたコートの裾から小さな影が覗いていた。少女だった。薄い水玉模様のスカーフを首に巻き、膝の上で薄汚れた切符らしき紙をぎゅっと握りしめている。毛先は雨にぬれて、黒い絹糸のように光った。どこか疲れた目をしていたが、年のわりに視線は落ち着いていた。

私は近づいた。検札の常套文句を口にしかけて、ふと駅の時計を見た。三分、遅れている。針が秒を刻む音が、いつもより一本少なかった。私はそれを無意識に数え、唇を引き結んだ。いつの間にか身に付いた癖で、私は駅の時計に三分の遅れを読み込む癖があった。今日は、その三分が、どうしても胸に刺さった。

「切符を見せてもらえますか」

彼女は首を振らなかった。手の中の紙は固く、肘の内側に押し込まれている。言い訳の余地もない。ただ、明確に「次の駅で降りたい」と言った。

「次の駅で、ですか。お名前と行き先——」

私は規則を、言葉を続けた。安全のための確認。降車の合図は明瞭でなければならない。持ち場としての私は、車内の秩序を守るのだ。だが、少女は切符を差し出さなかった。差し出さない者に私の力は働かない。そこで私は一歩前へ出て、帽子のつばを二度叩いた。二度目は、相手の意思を待つ合図だ。

「お願いです、切符を」

彼女は小さく息を吐き、掌を開いた。そこにあったのは、ひとかけらの紙。私の指先が触れると、紙は冷たかった。開かれていた券面の片隅に、墨色の小さな文字が浮きあがった。印刷ではなかった。手書きでもない。水滴のように滲む灰色の文字が、ゆっくりと私の視界に浮かんだ。

「まだ帰れない者」

その言葉は、雨音と一緒に私の鼓膜を打った。妙な違和感が胸に落ち、古い痕が疼くような感覚がした。あの日と同じ匂い、同じ三分のずれのある時計。規則に従えば、私はここで降車を促すべきだった。列車は終着まで走る。乗客に無用な危険を負わせるわけにはいかない。私の職責はそこにある。

「切符は有効ですか。乗車記録は——」

言葉が詰まった。彼女はただ、静かに首を縦に振った。窓の外に溶ける街灯の列が、短い流星のように通り過ぎる。ホームの端で、私たちは身動きを止めていた。

その瞬間、列車が大きく横へ揺れた。金属の悲鳴と、空気を切るような冷たい匂い。雨粒が高く跳ね、窓の外の世界が違う角度で滑った。私は反射的に少女の手を取ろうとした。切符は私の掌に滑り込み、文字がさらに濃くなるように見えた。

「危ない!」

客の叫びが車内を引き裂いた。ホームの端のレールがきしみ、遠くの橋梁の枕木が一つ、崩れ落ちるのが見えた。目の前の世界は瞬時に複数の音に満たされ、絶叫と金属音と、何かが燃える匂いが混ざった。足元が崩れ、私は体重を前へ受け止めようとして膝をついた。雨が顔に叩きつける。少女の瞳が私の顔を覗いた。

「降りるの?」

私は、その問いに答える言葉を探した。職務か、人の手を取ることか。規則は私を先へ押した。だが、目の中の少女の静けさは、言葉を越えて何かを訴えていた。まるで、降りることを選べない者のように。

「いますぐ、降りてください!」

私の声は車内の騒ぎをのりこえなかった。次の瞬間、衝撃が全身を貫いた。レールが断たれた。車輪が鋭くスリップし、車両が傾く。鉄と鉄が擦れるかん高い音が、胸まで届いた。目の前の景色が断裂し、ホームの角が私を嘲るように飛んでいった。

私は必死に少女の腕を掴んだ。手の感触はまだ暖かく、紙片は掌の中心に食い込んだ。切符の文字が小さく震え、雨の水滴がその輪郭を滲ませた。破れば、きっとすべては終わるだろうか。私はそんなことを考える余裕さえなく、ただ手を伸ばしていた。

「離せ!」

誰かが叫び、火の匂いが強くなった。窓ガラスが粉雪のように飛び散り、暗転寸前の世界の端に、星のような光が瞬いた。それは路面に散った電光か、それとも遠くで反射した灯りか——判断はできなかった。最後に私が見たのは、少女の切符に浮かぶ文字だった。もう一度、私に何かを問いかけるように。

まだ帰れない者。

そして、沈むような感覚。手の中の真鍮の器具が、いつかの深いポケットから落ちるのがわかった。その冷たさが、どこか遠い時間の欠片に結びついていく。三分の遅れが、私の胸を締め上げた。「もう三分、待てばよかったのか」と、思考は薄れていった。

黒い雨の中で、車輪の音が遠のき、あるはずのホームの名前ではない声が耳に届いた。金属が星空をかき鳴らし、レールが夏の夜空を切り裂くように響く。誰か、ないし何かが、ゆっくりと列車の到着を告げる。

「第零番ホーム、発車」——それは存在しない呼び出しだった。駅名が空気を震わせて消える間、私は見知らぬ風景の断片を見た。星の線路。地図にないホーム。そこには誰もいないはずの列車が、星屑の上を滑っていた。

暗闇に飲まれ、私は落ちていった。暗闇の向こう側で聞こえたのは、かすかな軋みと、たぶん誰かの優しい声だった。耳の奥で、古い時計が三度だけチク、と音を立てた。時間が曲がったのか、私が歪んだのかはわからない。ただ、心の一部が、何かを失ったという確信だけが残った。

次に目を開けたのは、木製の枕と鉄の匂いを混ぜたような、しかしどこか違う匂いの部屋だった。頭が重く、雨の音は遠い鼓動のように聞こえる。まぶたの裏に、星の列車の車輪がまだ回っていた。

私はゆっくりと体を動かし、着ているものを確かめた。粗い麻の襟元、袖口に小さな煤の跡。腰に触れたものは、あの夜に落としたはずの真鍮の穴あけ器だった。柄は少し違うが、触り心地は同じ。冷たさが掌に伝わり、不思議と安心する重さがあった。私は無意識にその器具を握り締め、じっと眺めた。金属は汚れていたが、刻まれた小さな模様は昔と同じだと思えた。

隣に置かれた小さな冊子に目が留まる。そこには見慣れない文字列が走っていた。鉛筆で書かれた走り書きのようで、最初は読めなかった。手が震え、ページをめくる。ページの一つに、明瞭な文字列が黒く刻まれていた。

エルディア辺境線・未乗車災害まで残り九十日。

その一行は、私の胸の中で何かを弾いた。九十日——その数字が目に入ると、どこか遠くの声が重なって聞こえた。星空の上で鳴った列車の呼び出し。雨に滲んだ文字。私の前世の記憶は、間違いなくそこに散らばっていたが、同時にどこかが欠けていた。名前の一部が、砂のようにすり減っているのを感じた。

私は誰かに