学園機甲部の合唱隊

学園機甲部の合唱隊 第2話「第1章」

講堂の空気は、夏の夕暮れに溶けたガラスのように少し粘っていた。舞台の照明が落ち、観客席のざわめきが遠くなると、その粘りは消え、音だけが透き通る。風間咲良は、舞台袖の暗がりで息を整えていた。胸の奥で、さっき格納庫で触れた鋼の冷たさと、胸部の“不在”紋様が残した震えがまた小さく顔を出す。今夜は学園の合唱発表会。机上の許可書は出ていない。だが、彼女の喉の奥では小さな旋律が羽化しかけており、羽を休めることを嫌がっていた。

講堂の空気は、夏の夕暮れに溶けたガラスのように少し粘っていた。舞台の照明が落ち、観客席のざわめきが遠くなると、その粘りは消え、音だけが透き通る。風間咲良は、舞台袖の暗がりで息を整えていた。胸の奥で、さっき格納庫で触れた鋼の冷たさと、胸部の“不在”紋様が残した震えがまた小さく顔を出す。今夜は学園の合唱発表会。机上の許可書は出ていない。だが、彼女の喉の奥では小さな旋律が羽化しかけており、羽を休めることを嫌がっていた。

「咲良、準備はいい?」

袖の明かりに映るのは高橋茜の輪郭だ。指揮台と同じだけの背筋、目は鋭くて優しい。茜は咲良の隣で指揮棒をもって明らかに舞台の中心を見据えていた。合唱の列はほぼ整い、藤原理央が前列で小さく息を吐くのが見えた。理央の顔は、幼馴染のそれであり、どこか安心する温度を咲良に与えた。矢野透は舞台脇の機材箱の陰にしゃがみこんで、スコアの端を指で押さえている。矢野は整備屋然とした肩で、低声のパート譜を確認している。三人がそこにいるだけで、咲良はどこか安心した。

しかし安心は脆く、彼女の胸にはいつでも「規則」が触れてくる。音律協定の条文が、夜の冷気に刺すように思い出される。四声以上、共鳴舷の接続、和音許諾――すべては規定の枠組みだ。咲良はそれを守らねばならないと知っていた。守らなければ、歌鎧は人の声に対して牙をむく。

舞台に呼び込まれる。スポットライトが茜の手で合図され、咲良は客席に向かって歩き出す。客席はほぼ満員だった。保護者、教職員、地域の人々。格納庫の古びた歌鎧は、この講堂の奥の展示台の上に置かれている。シートで覆われたその塊は、機械というよりは古い詩の塊のように見えた。レトロな装甲の縫い目、ざらついた塗装、胸部に彫られた凹み――“不在”がそこで光を吸っている。

演奏が始まった。茜の指揮は穏やかに、だが確かな輪郭で和音へと導く。曲は学園のために編曲された四声の合唱曲。完全五度と長三度が要所に配され、和音の骨格が静かに組み上がる。咲良は自分のパートの音を探し、口を開いた。

声が会場に溶け込む瞬間、彼女の胸が微かに震えた。歌鎧の方からではなく、自分の中から低い拍動が返ってくるような感触だった。まるで、どこかで誰かが彼女の心拍に合わせて小さな鼓を打っているようだった。共鳴舷の接続はない。学園の保存機体は展示状態で、起動回路は公式に封印されている。それなのに、音は届く。和音の周縁—長三度が主音の隣を優しく撫でる――その周波数の輪郭に自分の声がピタリとはまると、舞台奥のシートが震えるように見えた。

一瞬の遅れで、シートの下の金属が鳴った。光が、胸部の凹みの辺りでひと刷毛のように揺れる。誰かの携帯電話がシャッター音を立て、いくつかの点滅が客席で走った。茜は指揮棒を止めることなく、そして止められずに、次の和音へと進んだ。理央の声が一つの端を繋ぎ、矢野の低音が土台を叩く。四つの声が合わさった瞬間、歌鎧は呼吸をするように肩の装甲を微かに揺らした。

場内に小さなどよめきが走る。誰も予想しなかった「動き」だったからだ。観客の中で、古い職員の一人が立ちあがり、拍手をしてはいけない、という顔をした。だが歓声が上がるのもまた不可避だった。スマートフォンのライトが波になり、舞台の光とぶつかり合う。誰かが短いビデオを撮り、音声と映像がネットの小さな流れに落ちていく始まりを咲良は知らない。

その瞬間、咲良の喉の奥で、幼いころに聞いた古歌の断片が反射的に口をなぞった。「らら……ら、らら……」一節だけ。息はほんの短く、未完成にしかならなかったが、その音には何か古い紐が綻ぶような力があった。声を放った自分にも驚き、彼女はすぐに口を閉じた。古歌は合唱の中の一音として溶けたが、咲良の内側ではそれがスイッチの回転を終えた合図のように作用した。

歌鎧の胸部に、冷たい蒼い線が一瞬、走る。鋼の関節が軋む音が、空気の薄いところから聞こえた。機体は完全には動かなかった。規制のロックは働いたのだろう。だが「部分起動」は確かに起こった。装甲の一節が光り、胸の凹みの周囲で小さなホログラフィックのような波紋が生まれた。その波紋は観客の方へではなく、舞台に立つ合唱隊員たちへ向かって流れていった。目に見えない何かが、彼らの鼓動の輪郭を瞬間的に描いた。

そして咲良は、何かを失った感覚に襲われる。感情の端が、ふっと抜けた。曲のクライマックスで本来胸に満ちているはずの昂る感動が、彼女だけ、羽を折られたように薄かった。子供の頃の海の匂い、母の笑い声の細部、瑞音という名を呼んだときに見た誰かの目——そのうちの一つが、すっと風に溶けるように消えた。思い出の表面だけが残り、記憶の厚みがひとつ減ったような、空洞を抱えた感触だ。

茜は動揺を悟ったのか、指揮棒を一度低く落とした。だがプロの訓練が、それを即座に抑えた。曲は最後の和音へと収束していく。咲良は声を絞り出し、和音の最後の長三度を確かに口にして舞台の熱を終えた。音が消えた瞬間、場内は拍手とざわめきで埋め尽くされた。同時に、後ろの展示台のシートが完全に外され、学園の副校長が舞台奥で目を見開いているのが見えた。

「それは……何だ?」

副校長の声は出張り、機械音のように硬かった。教員が舞台裏で慌てた足音を立てる。スタッフの一人が何かを叫び、校内アナウンスの端末へと走った。咲良は拍手の波の中で立ち尽くし、心の中の空洞を意識した。理央がすぐに隣に来て、彼女の手をぎゅっと握った。手のひらは汗で少し熱い。理央の目が心配と、祈るような心持ちでいっぱいであるのを咲良は見逃さなかった。

舞台が終わり、観客が退場を始めると、事態はすぐに「共有」になった。誰かのビデオが既に校内の掲示板に流れ、各自のスマホで拡散されるのに時間は要らなかった。映像には、四人の声が合わさった和音と、胸部で光る小さな青が映っている。コメント欄は興味半分、不安半分だ。保護者の中には機甲の危険性を思い出す者もいる。学園の事務室はすぐに緊急の会議を召集する気配を見せた。

舞台裏で、矢野がすぐにやってきた。彼はスニーカーの紐を直しつつ、咲良の前にひざまずくようにして低声で言った。「触ったか、格納庫に近づいたか?」

咲良は頷く。指先の金属の感触がまだ手のひらに残っていると答えた。矢野の顔に、興味と危機感が同時に走った。彼は整備担当として、機体の微細な反応を人一倍気にする。胸部の光が何を意味するのか、単なる演出ではあり得ないことを彼は理解していた。

「共鳴舷は繋いでない。許可も出てない。なのにあれだけの反応が出るのは、和音だけで回路の外皮が刺激されたってことだ。しかも、その古歌の断片が混じってたら余計にね」

矢野は小声で、だが確かに言った。咲良は自分が口ずさんだ断片を思い出し、顔が熱くなる。古歌は禁忌の一つだった。学園でもその節の扱いは慎重にされている。合唱外で歌うなど論外だ、と学校では誰もが聞かされている。咲良は唇を噛んで、そのことをすぐに呑み込んだ。

茜が二人のところへ来て、眉を寄せて言う。「許可は? 申請は出てないのね。学園評議会に説明がいる。副校長も見ていた。あれ、起動行為に当たるかもしれない」

彼女の声には