摩天楼の空中競技者 第6話「第5章」
翌朝のガレージは、夜の嵐が嘘のように静まっていた。油の匂いと古い機械の金属感が混ざる空間で、リコがコーヒーの入った安い保温マグを片手に、端末の画面を何度も指で擦っては眺めている。センはコートの襟を立て、腕組みをしたまま薄い紙束をテーブルに置いた。紙の端が、夜の証拠の匂いを放っている――インクと消えかけた打刻と、誰かの焦り。
翌朝のガレージは、夜の嵐が嘘のように静まっていた。油の匂いと古い機械の金属感が混ざる空間で、リコがコーヒーの入った安い保温マグを片手に、端末の画面を何度も指で擦っては眺めている。センはコートの襟を立て、腕組みをしたまま薄い紙束をテーブルに置いた。紙の端が、夜の証拠の匂いを放っている――インクと消えかけた打刻と、誰かの焦り。
「これ、外部で受けたんだな」センは低い声で言った。「直で来たものじゃない。だが内容は明確だ。データに改竄の痕跡がある。何者かが実験ログをいじって、風圧の正常値に人工的な周期性を持たせている」
マコトは黙って紙を受け取り、指先で四角い数字列をなぞった。ログの断片は、彼がスタジアムで感じたあの不自然な「刻み」と同じパターンを示していた。一定の振幅が、短い間隔で繰り返される。リコが昨夜拾った破片のシリアル番号と、紙に書かれた古い設備の登録番号が一致する。一つの点が、別の点へと針で結ばれていく感覚があった。
「改竄の方法は単純じゃない」リコが言う。指先が微かに震えている。「ログにノイズを入れて、自然の風と区別がつかないように加工してる。だけど、完全には消せなかった。残留波形が微かに残ってる。あなた――マコトが見た線に似てる」
彼女は肩越しに小さな端末を差し出した。円形のグラフがくるくると動き、波形が赤く脈打つ。マコトはその波形を見つめると、耳の奥で遠い鈍い音が鳴るのを感じた。耳鳴りだ。まだ続いている、昨夜からの繰り返しのように。いつもの代償が、ここにある。
「周波数も合ってる」リコが続けた。「あなたが聞いてるあの耳鳴り。そこに含まれている高調波のスペクトルが、このログの隠しチャンネルのものと一致する。誰かが放ってる信号が、観測点の装置に重畳されているんだ」
マコトの掌に汗が滲む。風軌視は、ただ見せるだけの力ではなかった。見えるものと聞こえるものが繋がるとき、世界の輪郭が変わる。だが同時に、彼は自分の頭の中に少しずつ欠落が生まれているのを感じていた。短い時間の記憶が、紙のように端から風で飛ばされるように欠ける。昨夜の断片――助けられた瞬間に何を考えたか、誰にどう言われたか、その一部が白く抜け落ちている。
センは紙をもう一度見て、静かに吐息をついた。「これを公にすると、局もセレストも必死で抵抗する。クラブのスポンサーはまず逃げる。理事会は圧力をかけてくるだろう。だが、このまま黙っていても、被害は続く。どこかで決断しなきゃならない」
理事会の電話は、確かに既に鳴り響いている。昨夜の映像の欠損は、リーグとスポンサー双方の不安を煽っていた。クラブの理事の一人からは早々に「慎重な対応を」とのメールが届いていた。表向きの安定は金で買える。だがリコの眼差しは、金よりも先に保存すべきものを見ていた。
「だからまずは記録を分散する」リコは手際よく動き、紙束のコピーをいくつかの外部メディアに暗号化して送信した。「物理的にもデジタル的にも『消せない』形でバックアップを残す。もし上から潰しに来たら、公開する手は残す。だけどそれは最後の手段。まずはもっと――現場で証拠を取る」
マコトは問いかけを待たずに首を振った。「現場で取るって、どういう意味だ?」
彼の声が静かに響く。能力の条件は明確だ。風圧の高い高速移動の中でしか、あの『線』は見えない。静止した観測では何も映らない。ログや写真では残りきらない現象を、彼自身の『視る力』で捉えるしかない。だがそれは同時に、代償を伴う賭けでもある。使うごとに耳鳴りは強まり、記憶の欠落のリスクが増す。
「競技でしか拾えないデータがある」センが説明する。「公式のレースか、少なくとも公式に近い状況で。なぜなら局の機器の同調は、観客端末や配信帯と連動するからだ。非公式の練習では条件が揃わない。だが公式の場に出れば、我々は注目を集める。賭けだ」
クラブ側の同情者は少ない。理事の一人がその場の空気を読んだように口を挟む。「だがスポンサーが引けば、インフラの維持も危うい。選手の生活もある。リーグは評判を第一に考える。マコトが公に何かを言っても、真実が出る前に家族や仲間が潰される可能性が高い」
ニコラは端に立って腕を組み、薄く笑った。彼の表情はまだ読み取りにくい。いつもそうだ。ニコラの『速度を追う』癖の裏には、父の死の影があると誰もが薄々感じている。彼は口を開くと、短く言った。
「レースに出るのは、俺たちの意思だ。だが客観的に考えれば、相当なリスクを踏むしかない。お前の能力は斬れる刃だ。扱いを誤れば、指を切り落とすことになる。忘れることが一番恐ろしい。もしお前がコースで大事なことを見逃したら、それは誰の責任でもない。お前一人の肉体が、ここで代償を払う」
言葉は冷たいが、そこには一種の敬意が混じっている。ニコラは自分の速度でのみ信頼を示す男だ。彼が彼なりの方法で協力を示すということは、少なくとも行動の余地があるということだ。
「だからこそ、私たちが準備しなきゃならない」リコは淡々と言った。「補助器具を作る。あなたが風軌視を発動した瞬間を捉えるセンサーと、耳鳴りのスペクトルを録る装置を同時に働かせる。視覚像のタイムスタンプと周波数のログを同期させれば、第三者が解析可能な証拠になる。あなたの記憶が欠けても、データは残る。やり方次第で、あなたの代償を減らせるかもしれない」
作業は徹夜で進んだ。リコは古いトランジスタの回路図を引っ張り出し、センサーと小型録音機、そして赤外ラインカメラを組み合わせた試作機を作る。薄いフィルム状のセンサーはマコトのヘルメットに装着され、脳波のような微弱な電気の変化を拾う仕組みが組み込まれている。だがその性能は完全ではない。センサーは風の圧力と騒音に耐えられるよう補強しなければならないし、何よりマコト自身が長時間の使用に耐えられるかわからない。
「これで完璧とは言えないけど、現場の証拠は取れる」リコは疲れた顔で言った。「でも約束して、無闇に使わないで。感情が高ぶると、視像が歪れる。怒りや恐怖が混ざると、ファインダーは嘘を吐く。あなたは観測者であれ。操作者になってはいけない」
マコトは頷く。リコの眼差しは深い。彼女はマコトを守るために技術を使うことを選んだ。彼女にとってそれは倫理であり、約束だ。
午前中の軽いセッションで、彼らは試験を行った。マコトはヘルメットを被り、リコの改造端末を胸に縛り、短い直線コースを全力で滑った。風が耳元を掻き、身体は風圧に引かれる。視界の端に、いつもの「線」が現れた。流れるようなシルクの帯のように、風の軌跡が光の筋として見える。彼はそれを追う。だが端末が赤く点滅して、耳鳴りが一気に増幅した。世界が二重に震え、目の前の線の一部が欠け落ちる。抜けた断片は、彼の意識からするすると落ちていった。
「止めて!」リコの声が遠くなって聞こえた。だが行動は遅い。代償は確実に現れる。彼は足を止め、意識の端っこに何かが引き裂かれるのを感じた。短い断片――さっきセンと交わした言葉、ニコラの顔、リコの微笑みの輪郭の一部が、白い空白になった。数秒の間、世界の輪郭を保てなかった。
マコトは足を伸ばし、床にへたり込んだ。ヘルメ