摩天楼の空中競技者

摩天楼の空中競技者 第25話「第23章」

試験場は午前の光を薄いフィルター越しに受け、金属の匂いと古い油の匂いを混ぜ合わせていた。風を起こす大型ファンが格子状に並び、その前には継ぎ接ぎの床面──テストコースが用意されている。コースの脇にはリコの自作端末が並び、画面には周波数と振幅、センサーの生データが細かく踊っていた。古びた計器片に刻まれた微かな刻印も、リコの一手により安全停止プロトコルの一部として組み込まれている。彼女は手袋をはめ、端末を指で滑らせながら言った。

試験場は午前の光を薄いフィルター越しに受け、金属の匂いと古い油の匂いを混ぜ合わせていた。風を起こす大型ファンが格子状に並び、その前には継ぎ接ぎの床面──テストコースが用意されている。コースの脇にはリコの自作端末が並び、画面には周波数と振幅、センサーの生データが細かく踊っていた。古びた計器片に刻まれた微かな刻印も、リコの一手により安全停止プロトコルの一部として組み込まれている。彼女は手袋をはめ、端末を指で滑らせながら言った。

「二重リミッター作動確認。耳鳴りモニタはA帯域とB帯域の二系統で常時監視。旧式刻印から読み取った停止コマンドのバイナリはここに入れた。もし君が閾値を超えたら、リミッターが運動出力を瞬時に削る。強制停止とデータセーブが同時に走る仕組みよ」リコの説明は簡潔で、だが一言ごとに現場の緊張が乗っていた。聞きながら、マコトはローラーのブーツの紐を締め直す。指先が少し震える。

「本当に大丈夫か? 俺の記憶、また抜けたら──」マコトの声は低く、夕べの欠落がまだ冷たく胸を押していた。耳の奥で、低い持続音が小さく鳴る。リコは手を止め、彼の横顔をじっと見つめた。

「だから制限するの。五秒単位で、三段階までしか許可しない。君が観測者としてのデータを提供するのが目的。風を操作するのは、絶対に──」彼女の声に力が入る。「禁止。見て、記録して、私たちが解析する。君が操るんじゃない。いいね?」

彼は頷いた。禁止は鉄の掟だ。能力は「観測のみ」であり、どれだけ心が掻き立てられようと、手を伸ばして風を曲げることはできない。だが観測でさえ代償があり、それが耳鳴りと記憶の断片化になる。マコトは深呼吸をしてローラーを踏み出した。床が震動を伝え、ファンが吐く風が彼の体を一瞬冷たく撫でた。その触れは、いつもの本能を呼び覚ます。

視界の端に、薄い線が浮かぶ。線は一本ではなく、連続したねじれた渦が路面に沿って帯を成していた。彼の身体は自然と速度を求め、筋肉が反応する。だがリコの端末のディスプレイには安全制御が赤く点滅している。最初の五秒を越えるとリミッターは穏やかに出力を抑え、耳鳴りの実測値は記録される。マコトはその抑止を感じながら、視たものだけを電光のように目に焼きつけた。

「見える。線のねじれ──あそこ、送風塔の残響に似てる」彼が告げる。リコの顔に一瞬、安堵と緊張が混ざる。端末は彼の視認と同時にデータを取り込み、旧式刻印由来の停止コマンドと突き合わせていた。表示が合致する瞬間、室内の温度が一度だけ変わったように感じられた。

だが三十メートルほど進んだところで、耳鳴りが鋭く立ち上がる。A帯域の針が跳ね、リミッターが震えるような音を立てた。リコの声が遠くなる。世界の色が少しだけ変わる——視界に細かいノイズが走り、線が拡張縮小を始めた。感情の急上昇は視像を歪める。マコトはそれが禁忌であることを知っていた。

「落ち着け、深呼吸!」ニコラの声がコースサイドから飛んだ。彼は肩越しに、マコトの進路を冷静に読んでいる。ニコラの冷静さが、マコトの乱れそうな芯を一定に保つ。彼は風に抗うわけでもなく、ただ観測を続ける。視界に広がるのは渦の網だ。細い線が交差し、局所的に強度を増す箇所があった。

「ここだ、リコ! 波形が一致する。残留波のノードが二つ重なってる。そこが実験の痕跡だ」マコトの声は震えながらも確信を含んでいた。端末のログは彼の焦燥を冷徹に記録し、リコはデータ送信を始める。だが同時に、耳鳴りの針は更に上昇する。リミッターが「二段目」を受け入れようとする瞬間、リコが手を伸ばしてスイッチを切り替えた。

「停止。そこで止める。ログは取れた。戻れ、歩け」リコの命令は短い。マコトはブレーキを掛け、身体を低くして路面に沿うように速度を落とした。風が彼の耳を残酷なくらい鋭く撫で、鼓膜の内側で高い音が鳴った。足が震え、世界が断裂する感覚があった。彼の記憶は、そこでほんの一瞬欠落した。

気づくと彼はテスト場のベンチに座っていた。リコが肩を抱き、ニコラが飲み物の缶を差し出す。周りのメンバーは無言で機器をチェックしている。秒針が動く音だけが大きく聞こえた。端末には、先ほどの五秒間を超える瞬間のログが残されていた。欠落した時間帯と一致するのは──二十九秒ほどの空白。だが今回は以前より短い。目を開けたとき、彼の頭の中にあるのは断片的な映像と、冷たい恐怖の残像だけだった。

「被害は最小限。記憶欠落は短縮された。旧プロトコルの組み込みが効いてる」センが書類をめくりながら言った。彼の眼差しには疲労があるが、仕事は冷静だ。マコトは額に手を当て、思い出せる範囲を探る。渦が結んだ網目。送風塔のノード。耳鳴りと同時に体が浮くような感覚。欠けた時間を囲む断片は、繋げれば真実の輪郭になるはずだ。

「俺は、なんとか見た。足りないけど」マコトは小声で。リコはタブレットを差し出し、彼の視点記録を再生した。薄い線が動く。ノードが点滅し、二つの波形が干渉を起こす瞬間が映る。そこに旧式計器のシリアルが入っている。画面の下に、リコが組み込んだ停止コマンドの反応も見える。すべてが、ここで一つに結びつこうとしていた。

「これを基に、プロトコルを調整する。君のデータは臨床的な価値がある。だけど──」リコの言葉は続かない。彼女は目をそらし、タブレットを髪の毛で隠すようにする。表情の裏には、彼女自身の恐れがある。能力を持つ人間を実験材料にすることへの嫌悪。それでも、データが公共の安全に繋がることは疑いようがない。

「でも代償はある。君の体に負担を強いることになる」センが続けた。「代価を最小にするのが目標だが、ゼロにはならない。覚悟は要る」

マコトはその言葉を噛み締めた。転生の比喩はここで現実になりつつある。過去の自分を脱ぎ捨て、新しい役割を選ぶこと。その代償を払うこと。彼は窓の外に広がる摩天楼の輪郭を見た。風はまだ冷たく、昼の空気は乾いている。自分が誰を守ろうとしているかは、もう分かっている。だが守るために自分を裂くのは、別の痛みだ。

「参加は続ける。だが条件がある」彼はゆっくりと言った。言葉は重い決断を含んでいた。「リミッターを俺の意思だけで解除できるようにはするな。ログは公開用に暗号化して保存してくれ。もし俺が欠けたなら、君たちがそれを補ってくれ」

リコはすぐに頷いた。「当然。昨日の誓いと同じ。ログは二重バックアップ、公開用には検証済みの抜粋だけを出す。君の身体が優先。約束する」ニコラは黙って拳を握り、力強く笑った。

テストはその後も幾度か繰り返された。リミッターを微調整し、耳鳴りの閾値を下げ、旧式停止コマンドの反応時間を短縮する。毎回、マコトは風の線を見て、必要な断片だけを切り取るようにして情報を与えた。感情が揺さぶられたとき、視像は確かに歪む。ニコラはそのとき、彼に「視覚の補正」を言葉で与え、彼の目が怒りや恐怖に飲まれるのを防いだ。チームワークが一つの安全網になっていく。

だが成功は皮肉に満ちていた。データは確かに旧式刻印の出自と送風塔のノードを結びつけ、耳鳴りの周波数は局の隠し通信帯の存在を裏付けた。リコが作ったプロトコルは、公式の安全基準案として