夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第13話「第12章」

倉の扉を閉めると、夜の空気が一段と冷たくなった。硝の掌はあたたかく、天音の手を離さなかった。彼らの後ろで蓮見が最後のデータを眺め、ココロは細巻きにしたケーブルを肩にかける。真白は譜面の束をポケットに押し込み、無造作に肩をすくめた。誰もが言葉少なに、自分の役割だけを確かめ合うように動いた。

倉の扉を閉めると、夜の空気が一段と冷たくなった。硝の掌はあたたかく、天音の手を離さなかった。彼らの後ろで蓮見が最後のデータを眺め、ココロは細巻きにしたケーブルを肩にかける。真白は譜面の束をポケットに押し込み、無造作に肩をすくめた。誰もが言葉少なに、自分の役割だけを確かめ合うように動いた。

「逆流は十時二分からだ。硝の擦れ音は十時一分から始めて、十時一分五十八秒で一拍のズレを補正する。真白は十時二分で反旋律を重ね、天音は十時二分の頭で封じ歌に入る。蓮見、タイミングの最終チェックは?」

蓮見が端末の波形を指でなぞり、息を吐いた。「位相は合わせてある。ビープの位相シフトを開始すれば、連合の制御ロジックが逆流する。だが誤差は命取りになる。十ミリ秒のずれで主題が装置外へ跳ぶ。主題が行方不明になれば、天音は戻れない」

天音は譜面を掴みしめた。祖母の走り書きのような歌詞の一行が、紙の端で揺れている。彼女はその一行を胸に当てると、もう一度だけ目を閉じた。指先に残る紙のざらつきが、彼女の中の震えを鎮める。

「分かった」彼女は短く言った。「忘れたくない。覚悟はある。だけど、もし私が……戻れなくなったら、硝、みんな、頼むから私を忘れないで」

硝の目が赤く光った。言葉は出なかったが、その手の圧が彼女への誓いを代弁した。硝は小さな布片を指に巻きつけ、いつものようにラジカセのツマミを調整する手つきで指を擦り始めた。布が擦れる音は倉の木床に微かに伝わり、まるで深夜の心臓の鼓動のように規則正しかった。

「お前が帰ってくるまで、ここを離れない」と彼は低く囁いた。「お前の声を返すために、俺は何度でも擦る」

時間は静かに、しかし確実に動いていた。連合の本拠へ向かう道は夜の帳に溶け、彼らの影だけが淡く伸びる。地下を抜け、古い倉庫の陰に紛れ込んだその場所に到着したとき、ココロがポケットから鍵束を取り出した。錆びた扉を沈黙のうちに開けると、冷たい機械臭と共に、低く連続するビープ音が彼らを迎えた。

装置のある広間は、人の動線を考え抜いたように幾重ものパイプとパネルで埋まっていた。中央に据えられたのは、古いラジカセの巨大化したような異形の機械。磁気テープのスプールが太い軸で回転し、そこに刻まれたビープは床の板まで振動を伝えている。蓮見が端末を押し当て、波形を拡大すると、周期的なビープはまるで呼吸のように規則正しかった。

「ここだ」蓮見が囁く。「この波形に位相を打ち込めば逆流が始まる。だが装置は主題を抽出する機能を持っている。天音が歌う主題を自分の中に落とすには、逆流が“受け皿”にならなければならない。時間は一瞬だ」

真白は装置の周辺を軽く蹴って回り、低く笑った。「まあ、いつもの通りだ。ぶっ壊して、すばやく逃げる。天音はその間に歌えばいい」

「違う」天音が言葉を割る。「壊すだけじゃ駄目。主題はここから完全に消さなくちゃいけない。私がそれを受け止めて、ここで終わらせる。消すのではなく、刻むんだ」

真白の表情が一瞬硬くなる。だが彼はすぐに肩の力を抜いた。「お前が決めたなら、俺は歌う。お前の側で反旋律を重ねる」

時間が十時一分五十秒を示した。硝の擦れ音は既に始まっている。木片と布が擦れる「サッ、サッ」という連続が低く、しかし確かなテンポで流れていた。蓮見は小さな磁界コイルを押し込み、位相シフトのボタンを押した。端末のディスプレイが赤く瞬き、波形の位相がゆっくりと逆向きに傾き始める。

だが、現場は平穏とは程遠かった。警備の機構が二重に張られており、連合の末端構成員が遠くの廊下で足音を立てる。ココロが手を上げ、二人が影に潜む。硝の視線は天音の口元に固定されている。彼は彼女の名前を心の中で反復した。

「十時二分……十時二分、今だ」蓮見が吐き捨てるように告げた。

真白が動き、異なる音階で短いフレーズを口ずさむ。彼の声は低く、鋭い反旋律を形成し、天音の歌を縛る。天音はその反旋律を受け止めると、深呼吸一つで封じ歌の冒頭に唇を寄せた。風のない広間に、彼女の声が、やがて一つの線を引くように流れ出す。

夢に入るときの感覚は、夜中の深い湖に飛び込むようだった。辺りは急に温度を変え、彼女の周囲に色褪せた景色が立ち上がる。祖母の蔵の木箱、幼い日の遊び場の砂、老婦人の台所の匂い——断片が重なり合い、だがどれも完全ではない。残響体はそこにいた。黒く滲んだ影が、彼女の歌の主題の欠片を抱えてうろついている。

「主題を、ここへ」残響体は人の声のように言ったが、言葉は崩れ、千切れた写真のように耳に落ちる。影の縁に沿って、過去に彼女が介入した夢の断片が映像のように投影される。癒したはずの笑顔が、どこか空ろで、針の穴のように黒い点を漏らしている。

天音は歌を続けた。声は初めは力強く、だが歌えば歌うほど粒子が抜き取られるように軽くなっていった。声帯だけでなく記憶が消えていく感覚が、肉体を震わせる。最初に消えたのは幼いころの匂いだった。彼女は突然、母と手をつないで歩いた路地の匂いを思い出せなくなり、胸の奥がぽっかりと穴になったように寒くなった。

「その感覚、分かるか?」残響体は低い鳴き声のように笑った。「忘れることは自由だ。忘れれば苦しみは消える。忘れなければ、それは永遠の傷だ」

だが天音は声を止めなかった。歌は彼女の中心を掘り進み、譜面の行が一行ずつ、彼女の舌を通じて刻まれていく。真白の反旋律が微妙にねじれ、蓮見の位相が波形を押し戻す。硝の擦れる音は、彼女の耳に届く最後の現実の糸だった。夢の中で彼女はその布音を手繰り、暗い水面の底から自分を引き上げるための縄を掴んだ。

「硝……」呼びかけようとしたが、言葉がのどで砕けた。舌の裏がぼんやりとして、いつもの発音が出来ない。代わりに、彼女は硝の顔を思い浮かべる。声にはならない輪郭だけが胸に残った。

現実では、蓮見の端末の波形が不安定になった。位相の微かなずれが生じ、逆流の効率が落ちる。蓮見が急ぎ補正を試みるが、装置のサーバーが干渉を感知し、保護プロトコルが作動する。機械は轟音と共に加熱し、ビープの周期が微妙に速まった。

「装置が自爆モードに入る!」蓮見が叫ぶ。金属の臭いが広間を満たし、彼の手は汗で滑る。真白が即座に制御盤へ飛びつき、半ば乱暴に配線を切る。だがその瞬間、逆流は一時的に途切れ、夢の中の世界が揺らいだ。

天音の歌は空白へと落ちそうになる。残響体がその隙を衝き、彼女の歌の主題を引き剥がそうと手を伸ばす。影の触手が、彼女が刻もうとしている一行を引き裂こうとした。

硝はその瞬間、布を強く擦り、声にならない音を空間に叩きつけた。「来い、戻れ!」彼の動きに合わせて、擦れる音のテンポがわずかに変わる。蓮見は懸命にコイルを再同期させ、端末の表示がまた落ち着きを取り戻す。真白は手元の反旋律を変え、歌い方を一音、半音ずらした。反旋律の縛り方が変わると、残響体の腕が一瞬遅れ、天音の歌が再び確かな線を描き始めた。

歌が最後の行へ近づくにつれ、彼女の世界は薄れていった。幼い日の遊び場の滑り台の手触り、祖母がくれた小さなミシンの音、喉元に残る笑い声のニュアンス——いくつもの詳細が、彼女の中からこぼれ落ち