ビデオ怪獣館の館主

ビデオ怪獣館の館主 第25話「第23章」

朝のホームは、いつもの時間よりも少しだけ空気が薄く感じられた。鉄の匂いと消えかけた広告の紙の匂いが混ざり、そこにいつもの港町の湿り気が手を添えている。青柳昴は駅前の踏切の向こう側で立ち止まり、ホームにいる人影をふと見た。腕を組んで、首をすこし傾げるその横顔に、彼は胸の奥がきしむような痛みを感じた。

朝のホームは、いつもの時間よりも少しだけ空気が薄く感じられた。鉄の匂いと消えかけた広告の紙の匂いが混ざり、そこにいつもの港町の湿り気が手を添えている。青柳昴は駅前の踏切の向こう側で立ち止まり、ホームにいる人影をふと見た。腕を組んで、首をすこし傾げるその横顔に、彼は胸の奥がきしむような痛みを感じた。

それは、忘れたはずの顔の輪郭を追いかけてきた違和感だった。目元の細い皺の入り方、鼻先のちょっとした丸み。確かに以前ここで見た誰か――あるいは、ずっと前の夏に食卓で眺めた夕焼けの中の人影と、重なった。だが思い出せない。思い出せないからこそ、痛んだ。

電車のドアが静かに閉まり、顔は揺れながらホームを離れていく。昴は一歩も動けなかった。追うことはできた。走れば間に合ったかもしれない。だが、彼は追わなかった。その人を追えば、記憶への渇望は映写へと逆戻りする。フィルムでしか繋げない欠けた断片を、彼はもう安易に肉づけするつもりはなかった。

「追わなかったのか」

背後で中村こたろうの声がした。いつものぼんやりした笑顔が、今日はどこか引き締まって見える。彼は手に小さなノートを持ち、ペン先にインクの匂いを残していた。記録係としての仕事が、彼の指先を確かに日常へと戻している。

「うん」昴は短く答えた。胸の痛みを押さえつけるように肩を回す。思い出の一部がずれてしまう感覚は、氷が削れるように乾いた音を立てて胸元で鳴る。追わなかった理由を説明する必要はない。こたろうはそれを知っている。

「駅のベンチで、大きめの肩掛けを持ってた。見覚えあるって思ったら、逸らすのが一番だよ」とこたろうは言った。言い訳めいた口調だが、優しかった。彼自身もいくつかの頁が抜け落ちている人間だ。忘れた風景の代わりに、今はペンを走らせる。それが彼の守り方になっている。

「追えば、何が変わる?」こたろうが尋ねる。

昴は目を閉じ、ホームに残った風の音を聴いた。夏の終わりの湿気が糸のように頬を撫でる。投影の光は強力だ。輝度を上げれば、欠片はより鮮明に取り出せる。しかし代わりに喪う断片が増える。母と港で見た夕景のような、一枚の写真のような記憶が遠ざかっていく。

「何も変わらないかもしれない」昴はやっと言った。「でも、変わる可能性がある。人の顔を辿るために光を使えば、僕はまた誰かの一つを消してしまう。僕にはその資格はない」

二人は言葉を交わすよりも長く沈黙した。ホームに差す昼前の光は、ちょっとした粒子のノイズのように、周囲の景色をざらつかせる。映写機のランプを思い出す――光がスクリーンに当たるとき、世界の境界が薄れていく感覚を。もうあの力を無邪気に頼るわけにはいかないことを、彼は体の奥底で知っている。

午後、春子の公表は商店街の集会所で行われた。彼女は黒縁の眼鏡を直し、肘までまくった作業着の袖にインクの滲みを残している。机の上には慎重に分類されたネガフィルムの小箱と、デジタル化のために用意されたリーダーが並んでいた。地域アーカイブの設立は、春子にとっては個人的な誓いであり、町にとっての救済でもある。彼女の声は工房で磨かれた確かさと、時折見せる疲れの混じった温度を持っていた。

「フィルムをそのまま光で晒すのではなく、まず私たちがそれを"読む"こと。保存、修復、そして学術的な解釈です。誰かが恣意的に物語を編集することは許しません。フィルムの扱いは慎重に、透明に」春子はそう言って、会場の人々の視線を一つ一つ受け止めた。

質問が相次いだ。法的な枠組み、税金、保管場所、デジタル化の手順。昴は端の席でそれらを聞きながら、倉庫に置いた小さな缶のことを思った。缶はまだ振動している。あれが何かを意味するのか、彼にはわからない。ただ、夜に感じた鼓動はいつまでも続いている。

終わったあと、春子は昴にちらりと目配せをすると、二人で倉庫に戻ることを提案した。こたろうは「僕は記録だ」と言って幾冊かのノートを抱え、後に続いた。倉庫の扉を開けると、紙とセルロイドと金属の匂いが一斉に襲ってくる。曇りガラスの向こう、夕陽が棚の列に斜めの筋を作っていた。缶はいつもの場所に置かれている。表面の錆も変わらず、しかし確かな振動がその中で微かに続いていた。

「まだ動いてるか」春子は手袋をはめ、缶を手に取ろうとする。彼女の指先は熟練の修復士のそれで、もし必要なら蓋を外して中を検査することもできる。だが、春子はその手を止めた。

「ここにあるものは、勝手に触れちゃいけないものもある」と春子が言った。言葉の裏にあるのは、専門家としての倫理であり、過去の過ちを繰り返さないという決意だ。缶の中身が何であれ、彼女は安易な好奇心で扱うことを良しとしなかった。

昴は缶を見つめる。手のひらで伝わる振動はまるで眠れる機械の心拍のようで、時折小さく鳴る拍手のように聞こえた。あの音が何かを伝えているのか、それともただの擦れ合う金属音なのか。彼は自分がかつて持っていた「映写で全てを解決する」という考えを、ここでそっと葬った。

「いつか、開けるの?」こたろうが肩越しに訊いた。声に小さな期待が混ざる。

「誰かと、みんなと決める時だ」昴は答えた。彼の言葉はゆっくりで、でも揺るがなかった。自分一人ではなく、共同体として選ぶという約束。それが、あの缶を扱う唯一の正当な手続きであるように思えたのだ。春子は頷き、棚に戻るよう促した。

夕暮れの庭先に白い犬が現れ、倉庫の窓に昇る長い影を一度嗅いでから、昴の足元に擦り寄ってきた。犬の鼻先は鋭く、忘れかけたものの匂いを嗅ぎ分ける能力があると、彼らはもう知っている。犬は小さく鼻を鳴らすと、缶の脇へと座り込み、まるで「まだだ」と告げるかのように目をじっと据えた。

夜が深くなると、灯りは倉庫の奥だけを溶かすように残り、外の町は静かに呼吸する。昴は缶を抱えたまま、窓から外の風景を見た。向かいの家のベランダに、紙怪獣の紙片が風に揺れている。子どもたちの作った怪獣たちは、観られることで力を得るという冗談めいた真実を、町に新しい方法で示していた。語り部上映会で子どもたちが朗読した怪獣は、今は笑い声とともに町を温めるだけだ。

「僕は、まだ全部を取り戻したいとは思わない」昴は静かに言った。「失うことの痛みは知っている。だけど失ったものを無理に取り戻すことで、誰かの夜を奪うのはもう嫌だ。だから僕は、語ることでつなぐ道を選んだ。きっと遅いかもしれないけど、それでもいい」

春子はその言葉に小さく頷き、缶に触れないよう慎重に棚に戻した。こたろうはノートに何かを書きつけ、ペン先が紙と擦れるささやかな音だけが部屋に残る。外では古い街灯が一つずつ灯りを落とし、港の水面が遠くで波紋を作っているのが見える。

そのとき、見習いの少年が息を切らして倉庫に飛び込んできた。彼は春子の工房で働き始めたばかりで、目が大きく光っている。少年は缶を見つけ、無邪気さのまま手を伸ばした。指先が蓋に触れようとする瞬間、昴は反射的に手を伸ばし、軽く少年の手首を押さえた。

「今はまだだよ」昴は柔らかく言う。その声には、過去の重みと未来への慎重な希望が混ざっていた。少年は一瞬肩を落としたが、すぐに笑って手を引っ込め