ロボット修理屋の少女 第8話「第7章」
朝の風は港からまだ冷たく、歯車文庫の窓ガラスに細かな塩の粒を残していた。菜緒は赤いペンチをぎゅっと握り、布で油汚れを拭き取りながら、昨夜戸口に落ちていた小さな紙片を繰り返し眺めていた。鉛筆で走り書かれた座標とひと言、「見つけたら来い」。文字には温度があり、誰かが急いで書いた懐かしさも滲んでいる。
朝の風は港からまだ冷たく、歯車文庫の窓ガラスに細かな塩の粒を残していた。菜緒は赤いペンチをぎゅっと握り、布で油汚れを拭き取りながら、昨夜戸口に落ちていた小さな紙片を繰り返し眺めていた。鉛筆で走り書かれた座標とひと言、「見つけたら来い」。文字には温度があり、誰かが急いで書いた懐かしさも滲んでいる。
「行くんだな、港へ」
房雄の声はいつもより低かった。彼は工房の棚に並ぶ古いメスに手を触れ、その刻印を確かめるように指先で撫でた。逆回転の擦り痕が、早くも彼の中で固まった記憶を揺らすらしい。藤堂は地図の赤丸にもう一度目を落とし、蒲団のように膨らんだバッグを肩にかけた。ユウタは既に外套のポケットに手を突っ込み、靴紐を乱暴に結び直している。ロクサは小さな車輪をきしませて、一歩ずつ前で踊った。
監視端末のLEDが工房の片隅で微かに点滅している。昨夜、動力管理局と折衝の末に「暫定監視」の了解を取ったとはいえ、端末があるだけで、行動の自由は細い糸に束ねられているような気分になる。藤堂は端末の表示をそっと覗き込み、そこに残されたログの一部をスマートフォンで撮影した。
「ここの出入り記録は、近隣の倉庫のものと照合できるはずです。輸送記録に紐付けば、赤丸の場所が『海外向け』の積み場である可能性は高い」と藤堂。彼の声は抑えられた興奮を含んでいた。学者の目は、紙切れ一枚でも世界を開ける。
港までは人通りがまばらだった。朝靄の向こうに倉庫群が黒々と横たわり、鉄扉に貼られた古いステッカーが陽に曇っている。ユウタが人目を引かぬように裏道を選び、鍵のかかった扉の脇を素早く回っていく。房雄は身体を晒して見張る役割を買って出た。藤堂は吟味した書類をポケットにしのばせ、誰かに呼び止められたときのための説明を用意していた。
倉庫の中は埃と古い木の匂い、そして油の匂いが渾然一体となっていた。積まれた箱の側面には外字のようなスタンプが散らばり、その中に見慣れた社名があった。ネオ・クレスト。藤堂の指が、そこに止まる。
「ここにも載ってる。輸送元の欄に、ネオ・クレストの名が——」藤堂は唇を噛んだ。「合法的な取引か、あるいは契約で隠された一手か。どちらにせよ、彼らがこの供給線に絡んでいるのは確かだ」
ユウタが低く笑ったが、その笑みには堅さが混じっていた。「俺が尾行したルートと辻褄が合う。だが目に見える物は全部、消費財か工具に化けてる。記憶部品は密閉箱か、偽装されてるはずだ」
箱を調べて歩き、ついに床に半ば埋もれた小さな木箱が見つかった。角が擦り切れ、鉄の留め金には逆回転の擦り痕が残る。房雄がかちりと留め金を外すと、中には古い保守文書と、薄い真鍮製のタグが一枚入っていた。タグの表面には微細な溝が刻まれ、そこにLPレコードの波形のような線が彫られている。彫りの中には小さな文字があり、読み取ると「MEM-AX」「十夜静」と刻まれているのが見えた。指先が震える。
菜緒はそのタグを手に取ると、本能的に赤いペンチをバッグから取り出した。条件ははっきりしている。直接触れること、菜緒自作の赤いペンチと絶縁布を用いること、声を掛けること。禁じられていることもある。攻撃回路には手を触れない。人の記憶そのものに干渉してはならない。彼女はその約束を胸に留めつつ、タグの表面を絶縁布で包み、ペンチの先で軽く挟んだ。
「大丈夫か?」房雄の声がする。彼の眼には、まだ静の名の重みが残っている。
「うん、これは保守タグみたいなもの。攻撃回路の兆候はない」藤堂が顕微鏡で刻印を確認し、小声で付け加えた。「ノイズの波形は——これ、LPノイズのシグネチャと一致する。静が残した鍵だと仮定すると、分散保存のための暗号の一部かもしれない」
菜緒は深呼吸をし、手を包む絶縁布に唇で息を吹きかけた。いつもの儀式だ。触感をもっと深く取り込むため、彼女は小さな声で呟いた。「お願い、聞かせて。あなたが守りたかったものを、教えて」
声が空気を震わせると、タグの彫り目にほんのりと光が滲んだ。ラジオのような、遠い針の擦れる音が耳に入る。LPノイズだ。倉庫の木の梁がかすかに振動するように感じられ、菜緒の胸の内に何かが開いた。断片的な言語、コードのような響きが、前世の古い回路から漏れてくる。静の声だ。彼女はそれと同時に、自分の中で何かが反応するのを感じた。前史の断片が、糸を引くように。
「それは……十夜静の記述だ。暗号化された設計ノートの一部だ」藤堂の声は興奮しているが、同時に警告めいていた。「これをそのまま読み解くことは危険だ。軸の信号がここにある。感情的にも、技術的にも——」
菜緒はタグを握りしめ、赤いペンチの金属の冷たさを指先で確かめる。代償が頭に浮かぶ。いつも通りのルール。継写のたびに、彼女は短期記憶の一つを失う。どれが抜けるかは、いつもランダムだ。だが今回は、彼女はもう一歩踏み込む決断をした。鍵を得るためには、断片を取り込み、少なくとも一行だけでも前世の言語を継写する必要がある。見つけた手掛かりを持ち帰るためにも。
「短くする」と菜緒は言った。「一行だけ、聞く」
彼女は赤いペンチでタグを軽く押さえ、絶縁布で耳朶を覆うようにして自分の胸に当てた。そして喉の奥で、いつも修理の時に唱えるような簡単な呼びかけをした。言葉は古代の方言に似た音の並びでありながら、どこか機械的で、リズムはLPの浅いノイズと微妙に同期していた。
タグの中から声が出る。静の声は澄んでいて、しかし欠けていた。
「……保存は、分散せよ。単一の核にすべてを預けることは、記憶の死を招く。逆回転──過去をただ戻すのではない。時間の層を、選ぶのだ。鍵はノイズの中に埋められ、接続は匂いで結ばれる」
その瞬間、菜緒の胸の中に何かが落ちた。言葉の端々が彼女の感覚に触れ、前世の静が望んだ構想の輪郭が一瞬だけ見えた。しかし同時に、深い寒気が背筋を走る。前史の断片は、彼女の中の輪郭をぼかし始める。静の意思が強く出れば出るほど、菜緒自身の記憶が薄くなっていくという危険を、体が叫んでいた。
目の前の世界が少しだけ霞んだ。小さな穴がぽっかりと胸の奥に開く感じがした。菜緒は急いでタグを離し、ペンチを脇に置いた。手の震えを押さえ込むように深く息を吸う。しかし次の瞬間、彼女は何かを思い出せないことに気づいた。
「あれ、何だっけ……」菜緒はつぶやく。言葉が続かない。顔の筋肉が微かにひるみ、胸が疼く。
「どうした?」房雄が駆け寄る。藤堂もすぐ脇にいる。
菜緒は首を振った。失ったのは大袈裟なものではなかった。だが、それは確かに、彼女にとって意味のある断片だった。台所の古いパン屋の匂い、朝に触るとほっとするその匂い。彼女はそれが何であったか――誰が焼いたパンだったか――がすっと抜け落ちた。名前も、店の角の小さな張り紙も消えている。大事なものではないかもしれないが、日常の輪郭がひとつ欠けるのは、確かな剥落だった。
「匂いが――」菜緒は手で鼻を押さえた。「何か、大事な匂いを忘れたみたい」
藤堂の顔に憂いが走る。「継写の代償だ。何を失うかはランダムだが、繰り返せば輪郭がぼやける。注意しろ、菜緒」
ユウタが無言で握りしめた拳を開き、