ロボット修理屋の少女 第25話「第23章」
午後の光が工房のガラスを橙色に染めると、分散ノードの一覧にぽつりと黄色い点が浮かんだ。藤堂がモニターに指を這わせると、その点の波形が拡大表示される。規則的なLPノイズの同期波形とは違う、細くひっそりとした振幅。誰が聞いても「故障ではない」と言い切れない程度の、しかし確かな痕跡だった。
午後の光が工房のガラスを橙色に染めると、分散ノードの一覧にぽつりと黄色い点が浮かんだ。藤堂がモニターに指を這わせると、その点の波形が拡大表示される。規則的なLPノイズの同期波形とは違う、細くひっそりとした振幅。誰が聞いても「故障ではない」と言い切れない程度の、しかし確かな痕跡だった。
「これが、未定義の共鳴だ」藤堂が言葉を落とす。彼の声はいつもより少し低かった。技術者としての選択肢を一つずつ並べる。外部からのアクセス、偶発的なノイズ、あるいは——軸の残滓の、小さな反応。
菜緒は画面の波形を見つめながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。波形の端に引っかかった小さな鋭い刺が、夜の灯りのように瞬いた。その刹那、工房のどこかに、青い布の匂いがふと立ち上った。洗いざらしの綿の、塩と古い縫い糸の匂い。菜緒は息を詰めた。匂いは物理的なものではない。だが彼女の中で、匂いは記憶の鍵を回す。
「ユウタ、夜間監視は君が頼めるか」藤堂が顔を上げる。ユウタは窓辺で外の海を見ていたが、すぐに顔をこちらへ向ける。目が少し赤い。走り回る者の目だ。
「行くよ。ずっと待ってたみたいな波形だ」ユウタは短く笑って、それが笑い事ではないことを自覚すると言葉を引っ込めた。「でも、これを追うなら直接当たるより、まずは情報を固めた方がいい。外部ルートを当たってみる」
房雄は赤いペンチを拭きながら、古い目で菜緒を見た。ロクサは床に座って小さな配達袋を手繰り寄せ、鼻先でそれを確かめる。工房の空気は、いつものように生活の匂いと機械油の匂いが混じり合っていた。だが菜緒の内側には、消えかけた青いジャケットの欠片がチクチクと刺さっている。
「触るな」菜緒は自分に言い聞かせる。能力の条件と禁止は、彼女の行動を縛る鎖だ。直接触れること、赤いペンチと絶縁布を使うこと、声を掛けること——それらを満たした瞬間、記憶継写は起動する。その直後に、確実に、何かを失う。短期記憶の一断片が消える。どれが抜け落ちるかはランダムで、ひどければ幼い頃の顔や大切な匂いさえ飛ぶ。軍事回路や人間の記憶媒体に手を出してはならないという禁止もある。菜緒はもう一度、ペンチの赤い塗装を指でなぞった。今日の「一回」はまだ消費していない。
「触れなくていいのか?」ユウタが訊く。彼はいつものように頭の中で距離を測っていた。外へ出るには金も時間も必要だ。だが触れば直接的に情報を取り出せる可能性もある。菜緒の能力は軸に直接届くことがあり、断片の再生を見れば古い手掛かりが得られる——だがその代価は重い。
藤堂が静かに首を振る。「ここは監視を強化して、ログを取るべきだ。単発の波形を今すぐ触るのはリスクが高い。ノード自体は物理的に触れる部品があるが、それを菜緒が直に触るとなれば、彼女の一回を消費する。しかも、その効果は必ずしも完全な記憶を返してくれるわけではない。現状では外部で物理的な断片を回収させる方が安全だ」
房雄はぐっと唇を噛んでから言った。「若いのに、よく我慢できるな。わしはあの若いときに何度も触った。思い出を守るために刃を収めるのは辛い。だがな、時には待つ勇気も必要じゃ」
菜緒は頷いた。待つことは辛い。だが待たねばならない。彼女は自分の記憶の輪郭が既に薄れているのを自覚していた。幼い頃の顔は、この前の継写で一つ消えた。封印栓を自らに課したのは、代償の重さを知ってのことだ。今ここで一回を使って何かを得ても、戻るものは限られる。しかも、それでログの黄色い点が消える保証はない。無計画な挿入は、軸の残留意志を刺激してしまうかもしれない。
「外部を当たる」とユウタは即答した。「俺、海外に繋がりのある奴を知ってる。旧式ロボのコミュニティだ。静の名前が古い倉庫で出たって藤堂が言ってたろ? その跡を辿る奴らがいるはずだ。現地で小さな断片でも見つかれば、菜緒が触れる物理的な鍵になる」
藤堂は地図の上に指を滑らせ、古い倉庫の場所や港の連絡網、可能性のある転送ルートを示した。データの切れ端、海運のマニフェスト、古い修理記録の写し——それらは紙屑のように見えたが、どれも真実への糸口になり得る。菜緒は画面の波形を見ながら、その傍らに小さく浮かぶ自分の掌を想像した。触れれば光が返ってくるのだろうか。返ってくるとしても、自分の何を代償にするのか。
夕刻から夜にかけて、工房はそれぞれの役割で動き始めた。ユウタは荷物をまとめ、連絡先に短いメッセージを打つ。藤堂はログのサンプリング率を上げ、LPノイズの同期波形を照合するフィルタを立ち上げる。房雄は鍵の整備と物理的防御の再点検をする。ロクサは静かに菜緒の足元に寄り添い、じっと彼女を見上げた。菜緒は小さな手でロクサの頭を撫でる。機械の髪は冷たく、けれど確かな温度があった。
「行って来い、ユウタ」菜緒はやっとの声で促した。「気をつけて。無理はしないで。断片を見つけたら必ず連絡を。触れるのは向こうで見つけて、物理的に確証があるものに限る。わたしはここで観測を続ける」
ユウタはにっと笑って、いつもの英雄ぶった調子で応えた。「了解。早ければ明日の夕方には返す。行って来るよ。心配無用だ、姐さんの工房は任せとけ」
夜が更けると、菜緒は一人で工房の奥にある小さなコーナーへ行った。そこに彼女は青いジャケットをしまっている箱を置いている。もうボロボロで、なにより匂いが薄れている。それでも匂いは残っていた。箱の蓋を開けると、布の端がほのかに塩を含んだ匂いを放ち、菜緒の胸がぎゅっとなった。目の前にあるのはただの古着だ。だが彼女の内側では、それが時折、過去の断片を震わせるスイッチになっていた。
「静の匂い」——そんな言葉が浮かぶが、それは誰に聞かせるための言葉でもない。
菜緒は箱からジャケットの裾を取り出し、掌の上に置いた。布は擦り切れていた。縫い目の一部に、かすかな染みがある。それを鼻へ近づけると、想像以上に強い海の匂いが戻ってきた。途端に視界の奥がざわめき、夢のような映像が浮かび上がる。海辺の白い灯台。古い木の桟橋。小さな子供の手。女の声が静かに歌うように聞こえる——かすれたLPの針音が混じり、言葉にならない歌詞が胸を叩いた。
夢は短く、しかし生々しかった。菜緒は誰かの顔を見た。はっきりとした顔ではない。けれどその輪郭は確かに温かかった。おそらくは母でも姉でもない誰かで、名前はわからない。だがその人は菜緒に小さなネジを手渡し、「これを閉めておきなさい」と囁いた。菜緒はその手に赤いペンチを握っていた。声は「守る」という言葉を落とし、次いで「分け与えねば」と続いた。目が覚めると胸の奥に空洞ができていて、その空洞が何かを欲しているのがわかった。
夢は継写の儀式のようなものだったが、菜緒はペンチに触れてはいない。これは彼女自身の中で、前史の断片と現在の境界が薄れた結果生じる自発的な共鳴かもしれない。あるいは分散ノードの微かな信号が夜の静けさと共振した結果、彼女の残った感覚を揺らしたのかもしれない。どちらにせよ、夢で見たのは具体的な指示ではなく、感情の残滓だった。
夜明け前、ユウタは出発の準備を整えて工房の前に立っていた。短い仮眠の後でも彼の目は疲れておらず、むしろ期待