ロボット修理屋の少女

ロボット修理屋の少女 第15話「第13章」

朝の光が港の水面を綾取りのように震わせていた。歯車文庫の扉を開けると、いつもの匂い──鉱油とビニール、古い紙の角の黄ばみが混じりあった匂いが菜緒の鼻腔を撫でた。工房の内側ではロクサがすでに動いていて、床に散らばった小包を器用にまとめている。ランプが小さく瞬き、古いLPが低い針音を刻む。ノイズは完全に消えたわけではなく、今はそれが町の新しい呼吸音になっていた。

朝の光が港の水面を綾取りのように震わせていた。歯車文庫の扉を開けると、いつもの匂い──鉱油とビニール、古い紙の角の黄ばみが混じりあった匂いが菜緒の鼻腔を撫でた。工房の内側ではロクサがすでに動いていて、床に散らばった小包を器用にまとめている。ランプが小さく瞬き、古いLPが低い針音を刻む。ノイズは完全に消えたわけではなく、今はそれが町の新しい呼吸音になっていた。

「おはよう、菜緒さん」ユウタが口笛を吹きながら入ってきた。配達の鞄はいつもより軽そうで、彼の顔には昨夜の疲労よりも安心が乗っている。藤堂は解析機の前で、ログを一つずつ点検していた。房雄は古い木製の椅子に腰かけ、赤いペンチを膝に乗せて無言の朝食を噛んでいた。

町の条例は昨日付けで正式に施行され、歯車文庫は分散保存の試験拠点として認められた。菜緒の能力には「一日一回」の運用制限が公的に組み込まれ、使用ごとに彼女が負う代償は町全体の監査台帳に記録されることになった。彼女はその紙切れを、まだたまに指で撫でて確かめるようにしていた。安心と喪失が同居する重さだ。

「今日は午前中に子どもたちのワークショップだよね」藤堂が顔を上げる。机の上の解析画面には、昨日分散ノードに登録された幾つかの癖のリストが並んでいる。LPノイズの波形が優しく揺れ、クリック音が淡く重なる。菜緒は赤いペンチをポケットに滑らせ、絶縁布を小さく畳んで肩に挟んだ。

「うん。教えるのは簡単な分解の仕方と、歯車の向きを読むこと。それと……ノイズの聞き方」菜緒は少し笑って、ロクサの頭を撫でた。ロクサの目が柔らかく光る。分散保存の実装で、ロクサの「届ける」癖は町全体のノードと同期し、単に物を運ぶだけでなく、受け取り手の小さな願いを選んで伝えるようになっている。昨日は高齢の薬屋の梯子に残された古い薬袋を指定して届け、店主は涙を流して喜んだという。

朝の工作台では、子どもたちがすでに集まり始めていた。大人たちも見学に来ている。菜緒は手際よく工具を並べ、子どもたちに古い木の歯車を渡した。小さな指先が金属の冷たさに驚き、誰かが「これ逆に回すとどうなるの?」と訊ねた。菜緒は歯車を手に取って見せる。歯車の歯先についた微かな摩耗が、長年の癖を物語っていた。

「逆回転はね、ただ元に戻すんじゃなくて、何を残すかを決めるやり方なんだよ」菜緒は説明した。子どもたちは真剣な顔で聞き、ロクサがそっとそばに寄って小さな箱を渡した。中には古い鍵と、房雄が磨いた小さなネジが入っている。房雄が顔を細めて、「昔はこういうのがなけりゃ仕事にならなかった」と言った。菜緒はその言葉を飲み込み、子どもに笑いかけた。

午前の実演が終わると、町の代表が感謝を述べに来た。条例の施行に伴い、保存作業は共同体の作業になった。菜緒は強制的な公開を避けるように頼んだが、町の人々は彼女がいるからこそ守られたものがあると口々に言った。声は励ましであり、同時に新たな期待でもあった。

昼下がり、近所の小さな家の家事ロボが修理を頼みに来た。薄紫の塗装が剥がれ、ひざに古い泥がこびりついている。依頼主は二十代の父親で、幼い娘と一緒だった。ロボの癖は「寝かしつけの歌を歌うこと」。昔は母親が夜に忙しくて、ロボが代わりに歌っていたのだという。しかし先の規格更新で歌唱モジュールは簡略化され、命令は「就寝補助を最短時間で行え」になっていた。父親は「古い癖を戻してほしい」と言ったが、その希望は新しいプログラムと明白に衝突していた。

菜緒はじっとロボを見た。条件は変わっていない──直接その部品に触れること、赤いペンチと絶縁布を使うこと、声を掛けること。禁止は守らねばならない──軍事回路には触れない。代償も同じだ──使用するたびに短期記憶が一つ消える。彼女は作業の前に小さなチェックリストを心の中で唱えた。子どもの寝顔を思い浮かべると、胸がぎゅっとなった。

「今日は一日一回しか使えないって、決めたんだよね?」父親が言った。菜緒は頷いた。父親の目に不安が走る。娘はロボの前で小さく手を叩き、ロボはそれに合わせてぎこちない音声で応えた。菜緒はロクサに小さく合図を送る。ロクサはケースから古い布マイクを取り出し、優しくロボに差し出した。

「私、戻してみるね。ただし、歌を取り戻すのは一度きりの継写。多くは取れないかもしれない」菜緒は絶縁布を回路に巻き、赤いペンチを握った。触感が指先を通り、長年の摩耗と小さな癖が彼女の内部で反響する。LPのノイズが、いつもより低い周波数で共鳴した。菜緒はゆっくりと声を出した。いつもの儀礼の言葉に続いて、前世の断片の一節が、彼女の喉から音として漏れた。

継写は短かった。歌のフレーズが、古い縒り糸のようにゆっくりと戻ってくる。ロボの胸部の小さなスピーカーが震え、その声は遠い昔の子守唄のように柔らかかった。父親の目に涙が溜まり、娘は満足そうに目を閉じた。しかし菜緒はその直後、空白を感じた。昼食に何を食べたか、昨日の午後に誰と何を笑ったか、そんな些細な記憶が一つ、さらりと抜け落ちていた。彼女は一瞬、手が震えるのを感じたが、顔には意地を張って笑みを作る。

「ありがとう……本当に、ありがとう」父親が低く言った。菜緒は赤いペンチをケースに戻し、絶縁布を整えた。使用の記録をノードへ送信する役目はロクサが担っている。ログには使用目的、対象の癖、そして菜緒の体調のメモが自動で添えられる。公共性を担保する小さな仕組みだ。

午後の風は港から冷たく吹き込み、遠くでネオ・クレストの残党が別の研究機関に接触したという小さな噂が回っている。藤堂は解析の合間に何度もログをチェックし、外部からのアクセス試行は断続的にあるが、今のところノードは安全だと報告した。房雄は古い工具を磨きながら、「どんなに注意しても、針の先端に埃が入る時がある」と呟いた。菜緒はその言葉を胸にしまう。

夕暮れ、町は小さな祝祭に包まれていた。条例の施行を祝う小さな立て看板と、ロクサが配った灯篭が通りを照らす。子どもたちは歯車のモチーフの小さなペンダントを首に下げ、LPの針音に合わせて歩いた。菜緒は青いジャケットの匂いをいつものように確かめる。匂いは完全には戻らないが、糸のように細い感覚が胸に戻ってきた。それは静の片鱗であり、彼女が守るべきものを思い出させる合図でもあった。

夜になって、藤堂が解析機の前に菜緒を呼んだ。画面には分散ノードの稼働ログが光っている。普段は規則的に並ぶアクセス履歴の合間に、小さな、説明の付かない接続痕があった。タイムスタンプは深夜の短い瞬間を示し、発信元は未知のプロトコルだった。

「これ、昨夜から時折出るんだけど、どこかに潜んでいたクローンみたいなものじゃないかって疑ってる」藤堂の声は冷静だが、どこか火花を含んでいる。菜緒は画面に近づき、ログを指で辿った。文字列の端に、見慣れない符号列と、わずかな座標らしき数字が残っている。外部からのアクセスは自動で遮断されるはずだが、誰かが巧妙に小さな手口で余韻を残しているらしかった。

「誰かが見てるのかもしれないね」ユウタが窓の外から言った。彼の影は街灯に長く伸びている。菜緒は青いジャケットを胸に引き寄せ、深く息を吸った。匂