ロボット修理屋の少女 第1話「序章」
港の朝はいつも、潮と油と紙の匂いを混ぜた薄い霧を吐き出していた。風折(かざおり)市の波止場を見下ろす路地の一角に、古い木の引き戸が軋んで開く音があった。歯車文庫――十夜菜緒の工房は、まだ誰も来ていない時間に一番よくその顔を見せる。扉の内側には、黄ばんだポスターと小さな歯車の飾り、そして鉄の匂いが染みついた手垢が並んでいた。
港の朝はいつも、潮と油と紙の匂いを混ぜた薄い霧を吐き出していた。風折(かざおり)市の波止場を見下ろす路地の一角に、古い木の引き戸が軋んで開く音があった。歯車文庫――十夜菜緒の工房は、まだ誰も来ていない時間に一番よくその顔を見せる。扉の内側には、黄ばんだポスターと小さな歯車の飾り、そして鉄の匂いが染みついた手垢が並んでいた。
菜緒は作業台に肘をつき、赤いペンチを布で磨いた。ペンチの塗装には小さな傷があって、そこだけ光が鈍く欠けている。朝のラジオが壁の棚の隙間で薄く鳴っている。古いLPが針を擦るようなノイズと、遠いハーモニーのかすれが、工房の空気を満たす。紙とビニールと古い油でできた匂いが、菜緒の鼻先で混ざり合った。
「朝だな、菜緒。まだ寝ぼけてないかい?」
「寝ぼけてないよ、房雄さん。ペンチ、もう少しだけ磨くから」
市松房雄は、菜緒よりもずっと年輪の深い手を持っていた。七十を超えた老人だが、指先の動きは現役の職人そのものだ。彼はいつものように、菜緒がつかむ工具の向きを確かめるようにして、作業台の向こうでコーヒーの湯気を吐いた。
「今日はどうするつもりだ。名簿に二つ三つ、来客の名前がある。届ける奴の修理かい?」
菜緒は顔を少し強張らせて、箱の中の小さなパーツに視線を落とした。箱は古い手紙箱のようで、蓋の縁には錆びた金具が打たれていた。その中に、細い歯車と小さなジョイント、きしんだ金属片が眠っている。依頼主の名は、路地の向こうに住む高齢の女性。届け直し子──家事用の旧式ロボットの一部で、その歯車は本体の「記憶層」に直結する箇所だった。
菜緒はため息を一つ吐いて、ペンチを置く。赤い塗装の下で工具は冷たく、だが重さが手に馴染む。彼女がそのペンチを握るとき、いつも決まって胸の奥が引き締まるのを感じる。使い方は父代わりの房雄から教わったが、菜緒にはさらに、人には言えないもう一つの理由があった。彼女の手は、部品に触れると、そこに染みついた「癖」を垣間見ることができる。
「触れて、声をかける。布で絶縁して、赤いペンチで留める。連続稼働の痕が強ければ、癖は鮮明に出る。だけど、使うたびに記憶の一片を失う――それが代償だ。静の言ってたこと、思い出してる?」
菜緒は、小さく笑ったように喉を鳴らす。十夜静――名前だけは、藤堂リラが雑誌を持ち込んだときに聞いたことがあった。だが彼女はその全貌を知らない。体のどこかに眠る断片が、時折彼女の声を借りて囁くだけだ。
「うん。でも今日は、お願いされたんだ。届け直し子は孫のぬいぐるみを届けたいって。古い癖なの。壊れてからも、その記録だけが残ってる部品がある。……謝るけど、触らせてもらっていい?」
房雄は菜緒の目をじっと見つめた。眼鏡越しに覗く瞳は、歳月に削られた優しさと、古い工場の煙突のような硬さを同時に持っている。
「気をつけろよ、菜緒。命令と癖が噛み合わないときは、機械は迷う。動力管理局が耳に入れたら、面倒事が来る。でも、君がやるなら俺は後ろにいる。行け」
菜緒は箱の蓋を外し、手縫いの絶縁布をそっと取り出した。布は灰色で、ところどころほつれている。彼女は自分で仕立てたその布を部品に巻き、布の上から赤いペンチで繊細に留めた。作業の間、ラジオのノイズがふっと高まり、LPの針が一瞬深い溝を擦る。ノイズは部品の表面で鳴った古いメロディに反応しているように思えた。
「はじめるよ、届け直し子。声を聞かせて、過去の願いを。新しい命令は尊重する。でも、あなたの小さな『やり方』も伝えたいの」
菜緒は低く、だが確かな声で唱えるように言葉を紡いだ。手を部品の金属に触れた瞬間、感触が波のように彼女の掌を通り抜けた。鉄の冷たさに混じって、古い軸受けの擦れ音、湿った紙の匂い、そして小さな子どもの笑い声が断片的に立ち上がる。癖は短く、だが鮮明だった――届け直し子は「忘れ物を追いかけること」を何より優先していた。連続稼働の記録が長かったため、その願いは執拗なまでに強く残っている。
菜緒は息を止め、声を添えながら微細な調整をくり返した。赤いペンチで小さな接点を撫で、絶縁布の端を折り込む。部品の表面に浮かぶわずかな逆回転の刻痕を指先で読み取り、時間方向をほんの少しだけずらす。歯車が逆に回るような感覚が胸を通り抜け、ノイズが一拍遅れて和音のように変わった。
「届け直し子、あなたのやり方で、午後三時にあの角のベンチへ。新しい命令は――『効率優先で、指定時間外は休止』だね。でも、私たちは君の願いを一つだけ尊重する。君が届けられるように、ルートを短縮する方法を作るよ」
菜緒は作業を終え、部品を箱に戻した。手が震えているのに気づいて、蓋の縁を指で押さえる。房雄が差し出したコーヒーを飲むと、苦みが口に広がり、脳の輪郭が一瞬クリアになった。だが、その直後、菜緒の胸の中にぽっかりと小さな穴が開いたような感覚が走る。
「――あれ、さっきの……なんだっけ、名前が、名前が出てこない」
菜緒は掌を振って、思い出そうとする。朝に読んだ古い配達記録の一行、路地の角に置かれた小さな陶器、午前の空気の色。ある一つの短期記憶が消えていた。具体的には、いつも朝に買っていた小さなパン屋の店主の名前。彼女はそれがなんだったのか指先で探るが、言葉は指の間をすり抜けるように逃げていく。
「ああ……それを失くしたのか」
房雄は静かに言った。目の奥に、かつて同じことが起きたらしい陰影が走る。菜緒は、失った部分が小さくてよかったと自分に言い聞かせる。だが胸の奥には、もっと重いものがうずいている。前世の断片がじわりと顔を出す感覚。青い布の、濡れたような匂い。彼女はその匂いを思い出した瞬間、なぜか胸が締めつけられ、目の端に薄い光のようなものがちらついた。
「藤堂リラの話、覚えてる? 彼女、旧式ロボの資料を調べてるって噂よ。もし何かあったら、彼女に聞くといい。前史ってやつだ」
房雄の声は柔らかく、それでいて釘を刺すように確かだった。菜緒はうなずきながら、思い出せない店主の名前の代わりに、藤堂の名だけを胸に留めた。ラジオのノイズがまた一瞬だけ強くなり、針が溝を跳ねる音が工房の天井を渡った。
「今回のは軽い代償で済んだ。だが、忘れるものは次に何を奪うか分からない。君の触れ方にはルールがあるんだろう? 忘れ物を見つけることは優しい。でも、攻撃用や人間の記憶には絶対に手を出すな」
菜緒は自分で自分の耳に言い聞かせるように、その禁止条項を確認した。軍事目的の回路には触れない。人の記憶には干渉しない。自分が守るのは「旧式ロボの小さな願い」だけだ。だが彼女の胸には同時に、前世の設計師としての名残がちらつく。記憶軸を守るという理念の欠片が、ふとした時に顔を出すのだ。
午前の光が路地の石畳を斜めに裂き、工房の影を長く伸ばす。菜緒は届け直し子の名札を箱に貼り、依頼主の家へ持って行くと告げた。外へ出ると、港の湿り気が彼女のまぶたの縁を冷やす。遠くで作業員の笛が鳴り、波が堆積したゴミ袋を揺らす音がした。角の石段には、午後のベンチへ向かう老婦人の影が見えた。
菜緒は胸の奥に残る空白を押し込み、決心を固める。失うものがあると知っていても