時空特急の車掌 第5話「第4章」
機関室の扉はいつもより固く閉ざされていた。蒼辰号の鼓動を司る鉄塊の奥からは、いつもの低い嗚咽に混じって、かすかな異音が漏れてくる。蒸気の温度計は平常圏内だが、三谷時雨の目はその機器の合わせ目や配管のわずかな隙に惹かれていた。彼は片手に油布を挟み、もう一方の指先で煤の堆積の濃淡を確かめながら、低く呟く。
機関室の扉はいつもより固く閉ざされていた。蒼辰号の鼓動を司る鉄塊の奥からは、いつもの低い嗚咽に混じって、かすかな異音が漏れてくる。蒸気の温度計は平常圏内だが、三谷時雨の目はその機器の合わせ目や配管のわずかな隙に惹かれていた。彼は片手に油布を挟み、もう一方の指先で煤の堆積の濃淡を確かめながら、低く呟く。
「おかしい。煤の流れが普段と違う。ここは風の通り道になってる。青……いや、青いってほどじゃないが、微かに違う色素が混じってる」
金属にぶつかる蒸気音。三谷は顔をしかめ、ランタンの光を煤の表面に這わせた。光に反射して、普通の煤に馴染まない深い藍色が粒のようにちらつく。彼は素手でそっと掻き取り、掌に残った痕を鼻先に近づけた。金属と煤の匂いの間に、どこか海を思わせる冷たい香りが混じっている。
「青い煤だ」坂東ルリが続ける。「以前、文献で見た記録に似ている。採取物が本体に残ると、時流の安定を乱すって注記があったはずだ」
野分ユリは端末を抱え、採取した微粒子をスライドに載せている。端末の解析窓に、粒子の分布と色素成分のグラフが表示された。数字と波形が淡く踊る。
「成分一致です。先の伝票と同じ顔料の痕跡があります。ただし、純度が低い。何らかの混合物。これだけだと採取元の特定は難しいですが、粒子の形状が時晶起源のものと酷似しています」野分の声は冷静だが、画面の端で微かな震えが走るのが見えた。
蒼辰号の機関室は普段、外部からは隔絶されている。機関そのものに直接手を触れることは規則で禁じられている。三谷はその規則を守りつつも、職人として機関の微調を施すための権限を持っていた。だが今回は、どこかが侵されていた。外部からのアクセスがあった痕跡が残っている——煤の堆積、掻き取った煤が落ちた先のクレーンの受け皿に、微かな紙切れが挟まっているのをコハネが見つけた。
コハネは小さな手で紙を拾い上げ、眉をひそめる。そこには切符の角が赤く焼け、藍色の煤がしみになっていた。活字は半分だけ残り、「取扱:」と、そして薄く丸い刻印が浮かんでいる。刻印は有効乗車券のそれに似ていたが、ここで重要なのは紙そのものだった。紙はまだ「有効」であることを示す水印を保っていた。
「触っていい?」透は訊いた。掌にはいつもの懐中時計が当たっている。懐中時計の側面に嵌った無記名の刻印が、彼の指の動きに反応してか、微かに温度を変えた。時計は彼にとっての謎であり、時として警告のように振る舞う。
「いいが、気をつけろ」野分は即答した。「刻印視を行うなら、その券が有効乗車券であることを確認して。無効化券や複製に触れると、何も見えないか誤情報を引く。刻印視は確かな根拠がいる」
透は紙をそっと撫で、刻印の淵に指を伸ばした。能力の条件が頭の中で再生される——直に刻印を触ること、刻印は有効であること、完全な歴史の流れは見えないこと。視えるのは変更点の輪郭と関与者の断片。禁止事項も同じように奏でられる。列車外への強制的降車はできない。列車本体の時間軸には触れない。代償は修復ごとに記憶を失うこと——だが、触るだけでも前回のように小さな日常の欠落が起きたことを透は覚えている。
「行くぞ」彼は低く言って、刻印に親指を当てる。紙の縁は蒸気で湿り、煤の粒が指先に苦い感触を残した。視界が揺れ、車掌室や訓練の記憶がざわめくように消えると、別の光景が瞬間的に押し寄せた。
手が、冷たい石の皿に触れる。藍色に光る粒が手のひらの線を青く染める。誰かが低い声で発声を繰り返している。海風が唸り、洞窟の口が見える。火を焚く男の横顔、針のような器具を突き立てる白い杓、そこに落ちる青い粉——それは時晶由来の光を濃縮した「時薬」だった。透が見たのは使用の瞬間、採取と処理の短い断片だ。手から伝わる熱、粉が空気に溶ける瞬間の静謐、誰かの手首に押された鍛えられた鉤型の印。
視界が引き裂かれるように戻る。透は息を詰め、紙を握る手に力を入れた。懐中時計が胸で鋭く震え、針が一瞬だけ止まったように見えた。
「見えたか?」三谷が低く問う。機関室の空気が、いっそう重くなった。
透は頷いたが、言葉が出ない。野分の端末が即座に反応し、コハネは小さく歌をやめて、額を寄せるようにして彼を見た。坂東の顔に一瞬、過去の影が走る。
「時薬の使用現場だ」透はやっと言葉を紡ぐ。「採取場所は海辺の洞窟のようだ。人影、鍛えられた腕、鉤型の紋章——青い粉が切符にも付着してる。……時晶由来の物質がここで加工され、列車へと流れている」
「つまり、誰かが列車沿線か近隣で時晶を採取し、それを時薬に加工して流通させてる」野分は冷静に整理した。「青い煤はその副産物。濃度が低いのは、混合して輸送しているからでしょう。純度を上げると危険が増す。だから扱いは粗悪でも流通する」
三谷が唇を噛む。機関士としての誇りと怒りが入り混じっている。
「本体に残るとは……奴らは機関に近付いてる。外部採取で本体が乱されると、蒼辰号自体の時流が狂う。運行の安全を損なうぞ。どうして連中はそんなリスクを侵す? 利益か、あるいは——必要性か」
坂東は冷たい眼差しで紙の刻印を見つめた。彼女は昔の書類の隅に記された小さな鉤型紋章を思い出しているようだった。
「尾崎のやつらしい線は消えない」彼女が低く言う。「彼らは表向きには旅籠や問屋の体裁をとっている。白鷺亭のような場所を拠点に、表の需要と裏の流通を繋いでいる可能性が高い。今回の痕跡は、あの伝票群と一致する」
透は視覚の残像に手を伸ばす。海風、洞窟、鍛えられた腕。あの鉤型の紋章は、先に封筒の奥で見つけた小片に押されていた紋章の形と一致した。確証になるだけの小さな断片だが、線が繋がりつつあるのを彼は感じた。
「だが、ここで直接突入はできない」野分が制する。「我々は機関本体に触れられない。外からの採取なら、外部を辿るしかない。白鷺亭がハブなら、そこからどのような出荷があるか、誰が発注しているかを洗わないと——」
「白鷺亭へ行く」三谷が急に言い切った。「だが、俺は機関を守る。もし奴らがここまで来てるなら、次に来るのはより危険な行為だ。透、お前は下手に触れるな。本体に近いものを掴むと、連鎖的に時流が歪む。俺はそれを元に戻すための工具を持ってるが、無理はできん」
透は三谷の言葉を受け止めると、手の中の切符をそっとテーブルに置いた。刻印視の衝撃は、前回のように何かを奪った。直前の夕食の味がふうっと消え、彼は口の中が空のように感じた。思い出せるようで思い出せない、そういう小さな穴がもう一つ増えたことを自覚した。
「分かってる」彼は静かに答えた。「触れるのは必要最小限にする。今回は視ただけだ。だが、流通ルートを掴む必要がある。白鷺亭の名が複数の伝票に出てる。そこがハブなら、採取の出入り口や問屋の情報が見つかるはずだ」
坂東が手を伸ばし、封筒から抜き取った切符群を並べる。その中の一枚に、先ほどの鉤型紋章がくっきりと押されている。刻印の輪郭は、透の懐中時計の側面の曲線とどこか呼応するように見えた。彼の胸で時計がまた小さく震え、微かな電流のように温かさが手のひらを走った。
「ここからは慎重に」坂東は言う。