時空特急の車掌 第3話「第2章」
指先が、紙のざらつきとインクの冷たさを確かめるように刻印に触れた。掌から伝わる金属の冷たさが胸の芯にまで届き、視界が薄く裂ける。蒸気の匂い、軋む金属の湿った音、遠くで誰かが笑ったかすかな残響——刻印視はいつもそうだった。輪郭だけが明瞭で、物語は必ず途中で切れる。全貌を求めれば代償が膨らむ。透はその秤を思い浮かべ、ぎりぎりのところで目を開けた。
指先が、紙のざらつきとインクの冷たさを確かめるように刻印に触れた。掌から伝わる金属の冷たさが胸の芯にまで届き、視界が薄く裂ける。蒸気の匂い、軋む金属の湿った音、遠くで誰かが笑ったかすかな残響——刻印視はいつもそうだった。輪郭だけが明瞭で、物語は必ず途中で切れる。全貌を求めれば代償が膨らむ。透はその秤を思い浮かべ、ぎりぎりのところで目を開けた。
視えたのは、狭い作業場の断片。台の上に置かれた小瓶、青く光る粉末の山、そして無表情にかき混ぜる若い手。誰かの声が掠れて聞こえる。「もっと、もっと濃く……頼む」それは叫びにも似ていたが、同時に何かを懇願するような低い問いかけでもあった。顔は一瞬だけ映る。二十代半ば、細い頬、けれど疲れ切った眼差し。それが誰なのか、どこにいるのかは刻印視の限界で切り取られていた。
掌に残った感覚を確かめながら、透はゆっくりと顔を上げた。貨車の薄暗がりで、仲間たちの輪郭が蒸気越しに揺れている。三谷は腕まくりをし、煤と油の匂いを身体から放っていた。野分は小型分析器の画面に没頭し、坂東は腕組みをして視線を巡らせる。コハネは例によって車両の端に寄り添い、興味深げに彼らを見ていた。その眼が、透を見ると少しだけ大きくなった。
「どうだった」三谷の声は低く、機関の振動に合わせたように安定している。
透は刻印視の断片を言葉にしても無駄だと知っていた。だが仲間たちに断片を渡すことはできる。彼は紙を差し出し、見た映像の輪郭を説明する。「作業場、青い粉末、若い手。声は懇願している。顔は……映ったけれど、はっきりとは。刻印視は改刻の『関与者の断片』しか映さない。完全な流れは見えない。だが、これを使ったのは業者だ」
野分が眉を寄せ、装置のデータを指でなぞる。彼女の指先は冷たく光る金属に慣れている。画面に小さな化学波形が踊り、微小な成分表示が浮かぶ。「刻印のインクには一般的な顔料に混じって不自然な有機成分がある。これ、先ほどの老夫婦の伝票にも付着していたのと一致するわ。時薬の痕跡が微量含まれている」
時薬。蒼辰号の機関室で見つかった青い煤の残滓と、伝票に塗られた青い刻印。一見して無関係に見えるはずのものが、ここで重なる。透の胸に、前節で感じた小さな違和感が再び波打つ。懐中時計の刻印が胸で僅かに振動したように感じ、彼は思わず指で時計の縁を撫でる。記憶の縁がざわついた。凪ノ里という名が、言葉にならない硝子の破片のように脳裏の周縁で跳ねたが、そこまでだった。刻印視の代償はまだ払いたくない。あの時の味、昨夜の煮込みの匂い——失くした断片がひりひりと痛む。
「業者は列車内にいる」坂東が静かに報告する。彼女の視線は瞬時に貨車の出入口から車両通路へ移り、短い距離を見渡した。「乗客記録と照合した。若い男、名は岩城直哉。出発駅で個人登録を済ませている。だが業者の許可証は持ってない。つまり彼は乗客として来た」
三谷が吐き捨てるように言った。「降ろせないんだよな。規則は規則だ。乗車権=存在権。無効化は死を意味する。連盟の標準だ」
透はその言葉を聞きながら、既に通路を歩き出していた。規則は鉄よりも冷たいが、人の顔を見れば言葉は違ってくる。彼は落ち着いた足取りで隣の車両へ向かい、蒸気の流れが変わる音を体で感じた。古い車両の間を進むたび、床が微かに軋んだ。乗客たちの会話が途切れ、誰もが何かを嗅ぎ取るように目を向ける。透の胸の中にあるのは、正義でも規則でもなく、ただ「問う」ことだった。
直哉は食堂車の隅で、手をこすり合わせながら座っていた。指の間には青い粉の染みが残り、爪の周りに微かな煤が溜まっている。顔色は悪く、服は擦り切れ、だが神経質に動く目は鋭かった。透が近づくと、直哉は無言で立ち上がり、胸ポケットから小さな切符を取り出した。それは有効乗車券だった。触れなければ、彼の時間的存在はここに尊重される。規則の輪が透の周りに張られている。
「葦原透、車掌見習い」透は名乗り、礼を欠かなかった。規則を盾にして冷たく振る舞うことは容易い。だがそれは人を遠ざけるだけだ。直哉の肩越しに見えた紙片——伝票の切れ端に青い印が滲んでいるのを透は見逃さなかった。
「岩城直哉さんだね。君の仕事について話を聞かせてほしい」問いはやわらかく、それなのに強かった。直哉は一瞬ためらい、喉を鳴らす。その喉が乾いているのが見て取れた。
「俺は……頼まれただけだ。金が必要で」彼の声は低く、震える。「妹の手術に金がいる。村を出て、なんでもやるって言っただけだ。改刻だって、誰がどんな理由で頼んだかなんて知らない。依頼料を渡されて、指定の刻印に塗るだけだった」
「誰が?」透は問いを重ねた。直接降ろすことはできない。だが列車内で尋問することは許されている。話を聞くこと、記録すること、真実に近づく方法はまだある。坂東が脇で小さく頷き、書き付ける用意をしているのを透は見た。
直哉は目を泳がせ、唇を噛む。「名前は教えられてない。渡されたのは伝票と金、あとは行き先の暗号だ。ここに来る前にも何枚かやった。消されてしまったって人がいた。泣かれた。けど俺が止められるわけじゃない。仕事だ。金が必要だ」
「その道具はどこで手に入れた?」野分が率直に尋ねる。彼女は常に論理を優先した。直哉は息を呑み、肩を落とすとバッグの口元をまさぐった。そこから出てきたのは、使い古された封筒と、折りたたまれた伝票の束、そして小瓶が一つ。小瓶の内側に青い粉が残り、光を受けて淡く光った。
野分の手が伸び、装置を取り出して粉を慎重に採取する。分析器の針は細かく震え、画面に新たな成分が表示される。野分の顔に影が落ちた。「調べたとおりだわ。精製は粗いが、成分は機関室で見たものと一致する。これは時薬の粗製品。供給ルートは存在する」
三谷が低く唸った。「つまり蒼辰号の周囲で時薬を採取している業者がいて、それが刻替業者に流れている。業者たちはその顔料で刻印を改変している」
直哉の指が震えた。「でも、誰の依頼かは知らない。依頼者はいつも封筒に住所と印、あと銀行振込の番号を付けてくれる。俺の仕事は塗ることだけだった。終われば報酬が入る。妹の病院代はそれでなんとか……」
坂東がゆっくりと前に出る。彼女の目は冷たく、だが柔和さの裏に長い経験が滲む。「岩城さん、私たちは君を責めるつもりはない。だが、このままでは多くの人が消えるかもしれない。君の手に渡った伝票の中に、連絡先や発注元の手がかりはないか?」
直哉はバッグを開き、破れた封筒を差し出した。封筒の端には青い印が押され、インクの滲み方が不均一である。透はそれを手に取ると、無意識のうちに刻印に指を触れそうになったが、思いとどまる。刻印視には条件があった。触れるのは有効乗車券のみ。伝票や封筒は反応しない。能力を無闇に使えば代償が積み重なり、彼の持っているもの——前世の断片は、また一枚ずつ消えていくのだ。
「これでいい」透は自分に言い聞かせるように、その封筒を野分に渡した。「解析を任せる。記録は全部取る。君は——家族のことを話してくれ。ここで協力してくれれば、君の情報を使って合法的な手続きを進められる。連盟の法的手順を使えば、刻替業者の違法ル