月面ボウリングの挑戦者 第6話「第5章」
配分委員会の会場は、ミナト・ドックの旧管理棟に残る重厚な空間だった。天井の鉄骨には無数の配線がぶら下がり、壁には古い真鍮のスイッチと小さな表示灯が並んでいる。ネオンが淡く滲む向こう側に、動作音のする大きな回転計が時を刻んでいる。居住区の住民たちが詰めかけ、雑多な話し声と足音が膨れ上がる。潮は胸にボールを抱え、いつものように視界の端で軌道グリッドを試した。だが今日は視覚化装置は仕舞い、グリッドは心の裏にだけ描いた。それは自分の能力が公の場で如何に消費されるかを知っているからだ。光を浴びれば賞賛に変わるが、それは同時に檻となるのだ。
配分委員会の会場は、ミナト・ドックの旧管理棟に残る重厚な空間だった。天井の鉄骨には無数の配線がぶら下がり、壁には古い真鍮のスイッチと小さな表示灯が並んでいる。ネオンが淡く滲む向こう側に、動作音のする大きな回転計が時を刻んでいる。居住区の住民たちが詰めかけ、雑多な話し声と足音が膨れ上がる。潮は胸にボールを抱え、いつものように視界の端で軌道グリッドを試した。だが今日は視覚化装置は仕舞い、グリッドは心の裏にだけ描いた。それは自分の能力が公の場で如何に消費されるかを知っているからだ。光を浴びれば賞賛に変わるが、それは同時に檻となるのだ。
会場前方の演壇には、配分委員会の高官らしい人々が列を作り、中央には配信用の大型アナログ端末と、例年通りの抽選端末の小さなキャビネットが並んでいた。端末は古い機械式のダイヤルとプリントアウトのスロットを持ち、住民が見守る中で抽選の数値を吐き出す。その隣には「外部監査人」と書かれたバッジを胸に付けた中年の女性が座っている。彼女の顔は、端末の古い表示灯の反射で青白く光っていた。
「説明を始めます」配分委員会の代表が低くよく通る声で切り出した。端末の扱い方、加重式の概要、住民の評価点がどのように抽選確率へと反映されるのか。彼は冷静な幾何学図を示しながら、局の正当性を何度も何度も繰り返した。潮はその話を聞きながら、詰めかけた人々の顔を一つ一つ目で追った。歓声もあれば、沈んだ表情もある。特に低層居住区の人々には、顔に疲労の深い溝が刻まれていた。
ミサトは潮の隣で身体を硬くしていた。彼女の唇は薄く引き結ばれ、目の奥に計算と感情が混じった光が宿っている。黒沢は敢えて背筋を伸ばし、公の場にふさわしい表情を作っているが、潮はその瞳の端に鬱屈した炎を見た。入江は袖口から小型端末を覗き込み、時折指示を送るように画面を叩いていた。彼らはそれぞれに緊張を抱えており、同時に一つの目的へ向かっている。
やがて会は質疑応答へと移った。座席から何人かが手を挙げ、マイクが順に回される。小さな子どもが母親の膝から身を乗り出して、抽選で帰還できるのかと問いかけると、会場は一瞬で静まった。代表は穏やかに説明した。「抽選は公平な確率に基づきます。しかし評価点が高い者には配慮が必要です。技術的な資源は共同体の維持に不可欠ですから――」
その言葉に、ざわりとした波が会場を通り抜けた。潮の手がボールの縫い目を確かめるようにすべり、耳鳴りがふわりと戻ってきた。先日のデモで彼が使った代償――内耳の微細結晶の乱れが、まだ彼の体内で小さな不協和音を立てている。重力を視る器官が微妙に揺らぎ、足元の重さがいつもより曖昧だ。能力は使えば確かに守れる。だが守れば守るほど、帰還という個人的な夢から遠ざかる。彼はそのジレンマをいつも身に感じていた。
「質問のある方?」代表の声が会場を再び包む。潮は立ち上がろうとした。胸の中で何かが沸騰するのを感じた。あのログ、あのノイズのことを公に質したい。トモノの断片ログが示した時間的一致。もしそれが意図的な介入ならば、社会の根幹に関わる不正だ。潮は目を閉じて息を吸い、唇を震わせながら開いた。
だが、その瞬間、ミサトの手が彼の腕に強く食い込んだ。小さな圧力が、言葉を喉から押し戻した。彼女の目が低く光り、囁くように言った。「今、ここで全部をぶつけるのは……違う。人々が混乱する。まずは確かな証拠を、正規の手続きを通して出そう」
潮は一瞬、怒りと理解の間で揺れた。舞台は公の場であると同時に、統括局が最も有利に動ける場でもある。大声で不正を糾弾すればニュースになるだろうが、検証の手順を経ずに断言すれば彼らは「誤解」と切り捨てる材料を手にする。ミサトの顔には戦略の硬さがあり、その理由は正しい。一方で入江の目は何かを訴えていた。彼は技術者特有の早口で、小さく呟く。
「正規の手続きで突きつけるのが一番安全だ。外部監査人がいる。そこでノイズの検証を求めれば、ログの取り扱いは公的に行われる。だが……局が全て公開するとは限らない。アクセスの受け渡しは管理下で行われるはずだ。だから、僕はログの一部をコピーする」
その言葉に潮は眉を動かした。「そんなことが許されるのか?」
入江は肩をすくめ、端末の画面を指でなぞる。「技術監査官が局に質問する場で、局は検証用ファイルを提出する。外部監査が入るなら、その受け渡しは形式上必要になる。僕は、その形式に乗じて、検証用のバックアップコピーを取るだけだ。公開を急ぐよりも先に、まずデータを守る。外部に出る前に消されるかもしれない」
潮は手の中のボールに視線を落とした。ボールの表面は微かに擦れ、縫い目の隙間に昔の手入れの跡が残っている。彼にはわかっていた。入江の言う「コピー」は技術者としての正義だ。だが彼らが動けば管轄の監視が一段と強まる。黒沢はすぐに反応した。「俺はその場で何も言わない。だが局が動くなら、俺も動く。お前らが動くなら、俺は仲間だ――ただし、名声につながるなら話は別だぜ?」
それは皮肉めいた挑発だが、声の奥には真剣がある。黒沢は公的な特典や職掌の魅力に揺れる一方、かつての裏切りと居場所の問題も抱えている。彼がどちらに傾くかは重要になるだろう。潮は彼を睨むような目で見返し、短く笑って答えた。「お前の横槍は、今回不要だ」
会は進行し、外部監査人の短い挨拶が行われた。彼女は端末の画面を一瞥し、淡々とした口調で言った。「本日は技術監査のための初期確認を行います。抽選端末およびそのログは、正規の手続きに基づき監査されます。ノイズ検証の申請があるときは、私に直接申し出てください」
その言葉は公平に聞こえた。だが潮の胸には小さな不安が残る。公平という言葉は、ときに装飾的な包帯に過ぎないのだ。会が一通りの説明を終え、質疑は沈静化した。だが会場の後方で小さなざわめきが起きる。入江がすばやく立ち上がり、公式に監査人へ近づいたのだ。潮はそれを見て、胸の鼓動が速くなるのを感じた。
二人はやがて人目のつかない廊下へと移り、薄暗いランプの下で簡単な会話を交わす。入江は端末の小さな口から、局が提出するであろうログサンプルの受け渡し方法を確認した。「監査用の抜粋が作られる。局はそれの整合性を保つために、コピーを自分たちの端末で検証する。だが、その作業には一瞬のスキがある。僕はその隙にUSB接続ではなく、物理的なエミュレーターでメモリを複製する。目立たない。技術的には合法のグレーゾーンだ。潮、お前はそこで人前で口を挟むよりも、僕がコピーを取る間、ただ座っていてくれないか?」
潮は頷いた。座っていてくれ、とはつまり表立って何もしないことを意味する。能力を見せつけて注目を集めれば、局の側はその技能を公開デモに繰り返し使いたがる。彼はそれを知っていた。ミサトの言葉も思い出した。「先に確証を。人々の不安を煽らないように」彼は深く息を吐いた。耳鳴りが夜気に溶け、静けさが少し戻る。
入江がロビーの片隅で手際よく局員とやり取りする間、潮は会場に戻り、ただ人々の顔を見つめていた。誰もが帰還を望んでいる。誰もが自分の順番に賭けている。その静かな渇望を目の当たりにすると、どれほどの不正があって