銀河ラジオの少年 第29話「巻末特別章」
年に一度の夜が来た。窓の外では、遠くの星々がいつもより少しだけ冷たい光を放っているように見えた。夜鳴局の古い時計は、二重になった針がゆっくりと重なり合うのを待っている。局の中は薄暗く、真空管の赤い光が機器の輪郭をぼんやりと照らしていた。人影は少ない。結が最後の配線を確かめ、律子が保存箱の鍵に触れ、ロウが古い鞄を床に下ろして背を伸ばす。ミミはいつものようにブースの縁に座って、センサーを小さく震わせていた。
年に一度の夜が来た。窓の外では、遠くの星々がいつもより少しだけ冷たい光を放っているように見えた。夜鳴局の古い時計は、二重になった針がゆっくりと重なり合うのを待っている。局の中は薄暗く、真空管の赤い光が機器の輪郭をぼんやりと照らしていた。人影は少ない。結が最後の配線を確かめ、律子が保存箱の鍵に触れ、ロウが古い鞄を床に下ろして背を伸ばす。ミミはいつものようにブースの縁に座って、センサーを小さく震わせていた。
年に一度の「記念放送」は、透が個としていた頃に比べれば簡素になった。主体は複数の読み手であり、透の声は断片として間奏に混じる。だがその断片が、誰かの胸を突くことに変わりはない。若い朗読者が葉書を手に取り、静かに読み上げを始める。針の跳ねる音、テープの擦れるノイズ、そして群読の呼吸が放送の帯域を満たしていく。
放送の途中、いつもは背景のように聞こえる透の断片声が、ふと滑り出した。かすれた波形が、一瞬だけ普段とは違う形を描いた。律子はミキサーの前でそれを見て、息を呑んだ。モニターの波形に細い山が立ち、その山が言葉らしい輪郭を持ったのだ。
「――応え、……待てばいい──」
誰もが瞬間、言葉の内容を理解しようとして耳を凝らした。だがその「応え」という単語は断片であり、続きは放送帯域のノイズに溶けた。透の声は完全ではない。だが、放送室にいた全員は、その断片がこれまでの何よりも強い「意思」を宿しているように感じた。
放送が終わると、部屋には静けさが残った。いつものように拍手も、はしゃぎもなく、ただ機材の余韻が低く呻くのみだった。結が機器の電源を切りながら、律子の方を見た。「今の、何だったんだろう」と結がつぶやく。律子は顎に手を当てて、放送ログの波形を指差した。「周波数の形がいつものものと違う。透の声の残像が、D装置の共振と微妙に同期しているわ。少しだけ、結晶が反応している」
ロウは鞄から取り出した小さな紙片をそっと差し出した。先日、郵便受けに落ちていた未開封の葉書だ。切手の紋様は見慣れぬ渦を描き、差出人欄は空白のまま。律子はその切手に手袋越しに触れ、紙の端を調べた。紙端には微かな青い粉が付着していた。先に見つかっていた藍の染みとは違うが、成分反応を見れば何かが分かるだろうと律子は言った。
ミミが低く鳴いた。センサーが示す小さな振れが、展示箱の上で葉書の紙端を震わせた。透の声の波形が、また一つ小さく跳ねる。誰の耳にもはっきりとは聞こえないが、場全体に一瞬の気配が走る。波形と紙の微振動が呼応したように見えた。律子はその反応を無言で記録し、次の言葉を慎重に選んだ。
「開けるか、開けないか。ここで決めるのは私たちよ」律子は風に落ち着いた声で言った。「開ければ、もしこれが『夜電波の縫』に触れるものなら、放送で読み上げたときに何らかの縫的作用が起きる。禁止だってある。過ちの繰り返しはしたくない。だが、調査は必要。紙質、染みの成分、切手の紋様……まずは物理的な検査をする。D装置の保護下で。そうしないと、誰かが無意識に開けて放送に使ってしまうかもしれない」
結が鋭く頷く。「賛成だ。開けるのは群読の合意が整うまで待つ。だが、調査班は立てる。ロウ、君は現地調査を続けられるか?」ロウは軽く笑って肩をすくめる。「ああ、どこだって行ってやる。切手の紋様だけで惑星判別は無理だが、郵便回路を辿れば何かは出る。あいつら(縫切残党)だって、もう全員が敵じゃねえ。協力したがるやつがいるなら話を聞く。だけど開けるのは待つ——俺はその決定に従う」
ミミがもう一度、短く鳴いた。ブース内の空気がわずかに揺れる。律子はグローブを外さず、小さなスライドを引き出して紙片の端に接触させた。「まず顕微鏡。次にスペクトル分析。Aの染みに似た成分があるかどうかを調べる。だけど、もし似ていても、それがここで縫い直しを可能にするかは別問題。触媒は触媒だ。触媒があるだけでは縫い目は出来ない。縫い手がいなければ針は動かない。透はもう個としての主体を捧げた。だから私たちはどう使うかを慎重に考えなければならない」
結晶のケースは静かに光を灯していた。D装置は透の犠牲を経て再定義され、局の記憶保持装置として機能している。律子は装置のロックを解除しないまま、分析器の入力ポートに葉書の微片のデータパケットを送る準備をした。ロウは鞄のポケットから小さな通信端末を取り出し、遠征で得た情報を画面に映す。「縫切残党の一部だが、本隊から離反したグループが、近縁の小惑星群で郵便回路を保全しているって噂がある。もし切手がそこ由来なら、送信経路の一部に手がかりがあるかもしれない」
話し合いは粛々と進んだが、感情は確かに波立っていた。透が消えた後で流れた時間が、人々を成熟させたように見えたが、同時にまだ癒えていない傷も見える。ロウは時折、透が生前にした何気ない仕草を思い出してため息をついた。結は機器を撫でながら、透の消えた椅子に当てるように指を置く。律子は記録を取りながら、誰よりも冷静に、だがその冷静の裏側にある重い決意を隠さなかった。
分析は夜を跨いで進んだ。律子が持ち帰った初期のスペクトル分析のデータは、やはりAの藍ではないにせよ、微粒子の組成が電波結晶の古い微粒子と類似性を示すことを明らかにした。紙の繊維には遠方の植物性繊維が混ざっており、切手の紋様は局がまだ監視していない郵便回路の一つを示唆していた。ロウの端末は、切手紋の要素が特定の商行の印刷様式と一致する可能性を示した。だが確証はない。匿名性は高い。誰が、どの星で、何のために送ったのかは分からないままだった。
翌朝、予想もしなかった連絡が届いた。縫切の元構成員を名乗る中年の人物からの通信だ。過去に彼らが葉書を焼いた、改竄したという罪を告白する短いメッセージだったが、その文末にこうあった。「我々の中にも、失われたものを取り戻すべきだと考える者がいる。あなた方が透を救ったやり方を見て、疑問を抱いた。協力する。切手の紋様の出処を突き止める手伝いをしてもいい。その代わり、あの葉書は急いで開くな。場を壊すことになる」
誰もが驚いた。縫切の残党からの協力申し出は、本隊が残した傷の深さを考えれば信じがたい。だがこの人物の語調は真摯で、言葉の端々に後悔が滲んでいた。ロウは端末を指で擦りながら、低く笑った。「ああ、面白え。敵だと思ってた奴らが手を差し伸べてくる。これもまた、局が場になった証拠かもしれねえな」
律子は通信記録を保存してから、仲間に向き直った。「協力は受ける。ただし、透明性を保つこと。彼らの情報は利用するが、調査と公開は我々の責任だ。二つの理由で開けない。第一に、放送で読み上げて縫い効果を狙うのは禁じ手。未来を変えるのではなく、過去を照射して存在を確認することに限られている。第二に、この葉書が触媒的性格を持っているなら、安易に操作することでD装置の負荷を急増させるかもしれない。透が払った代償がここで再び誰かに課されることは避けねばならない」
結晶のうち、透と一体化した部分――かつてのDは、今や「保存媒体」に姿を変えつつある。律子はその技術的脆弱性をよく知っていた。装置を活性化すれば微妙な結晶消耗が起きる