銀河ラジオの少年 第14話「第一部幕間」
放送が終わった後の夜鳴局は、まるで放った息を引き戻したように静かだった。余韻はオーディオの帯域にだけ残り、ブースの空気はまだ微かな電波の温度を保っている。律子はモニタの波形を何度も往復させ、結は根気よく結晶格納室の蓋を撫でるようにして見つめ、ロウは外套のフードを深く被ったまま窓の外を見ていた。ミミは丸くなって、透の膝の影の側で静かに呼吸している。
放送が終わった後の夜鳴局は、まるで放った息を引き戻したように静かだった。余韻はオーディオの帯域にだけ残り、ブースの空気はまだ微かな電波の温度を保っている。律子はモニタの波形を何度も往復させ、結は根気よく結晶格納室の蓋を撫でるようにして見つめ、ロウは外套のフードを深く被ったまま窓の外を見ていた。ミミは丸くなって、透の膝の影の側で静かに呼吸している。
透は椅子に座ったまま、手の中の葉書を無造作に重ねていた。葉書の端はまだ湿ったように見え、青い染みの部分にはわずかな光の粉が付着している。彼の顔には満足のような、喪失のような微笑がゆらめいていたが、その目はどこか遠くを見ている。律子が声を震わせて訊ねる。「透、覚えている? お母さんの好きだった季節の匂い――夏の夕暮れとか」透は一瞬眉を寄せ、口を開けたが言葉が出ない。代わりに不安そうに首を振るだけだった。
結の顔が硬くなる。「何を聞いてんだ。お前、さっきから同じことを聞かれて首を振る。放送であれだけ——」結の声は切羽詰まっていたが、抑えられている。ロウが割って入るように笑った。「落ち着けよ、結。彼はやったんだ。世界を救ったんだ。忘れることと引き換えにな」その言葉で空気は一瞬和らいだが、律子の指先はモニタの上で震えている。
「代償があるってことは、最初からわかってた。けれど――」律子は言葉を途切れさせ、透をじっと見た。「どれだけ、ということまでは。名前一つや、趣味や、母さんの顔まで失われるなんて……」彼女の目には怒りと哀しみが混ざる。透はゆっくりと首を振り、苦笑を浮かべる。「ぼくは……選んだんだ。誰かが戻るなら、僕はいい。だけど、みんなに迷惑をかけたらごめん」それは既に記憶の裁量を超えた、残された声だけの言葉だった。
局は外からの圧力にさらされていた。通信庁からの正式な通知文書が朝方の通信で到着している。効率と運用率、聴取データに基づき局の「経営評価」が行われる旨が、事務的に並んでいる。律子はそのページを指先でなぞりながら、しかしその行間にある冷たい数式の存在を見逃さなかった。「支援は公共的に動くけれど、形式は数字が支配するって言うのね……」彼女の声は低かった。結はかぶりを振って文書を丸め、「俺が何とかする」とだけ言った。が、その言葉の奥に、結晶の劣化が修理で根本から回復する見込みが薄いことを彼が感じている苦渋が滲んでいた。
「結晶が、あのままじゃ持たない。放送のための縫いを続ければ続けるほど、あれは消耗する――今回でかなりの出力を失った。部分的には再構成できるが、寿命は短くなる」結は作業台に置かれた微小割れの入った結晶の欠片を指で転がしながら言った。律子が近付き、顕微鏡で表面を覗く。「粉の粒子が葉書の染みと一致する。染みは単なるインクじゃない。電波結晶の微小粒子、あるいはその劣化物質と同質だ」彼女の声が低く、だが確信を持って響いた。ロウは唇を噛み、外套のポケットから薄い写真を取り出した。写真には、夜市の裏手で見つけた落書きと、かすれた徽章――縫切のそれらしい模様が写っている。
「それで、縫切の接触者を捕まえたんだ。スラムの端っこで眠り込んでたのを連れてきた」ロウが言ったとき、扉が開き、薄汚れた男が押し込まれるようにして入ってきた。彼は怯えた目で周囲を見渡し、ミミに鼻をつ突かれてうずくまる。男の手首には古い封筒の切れ端が絡まっていた。封筒の縁には青い粉塵が付着している。
律子はその封筒を慎重に広げ、視線が細くなる。「縫切は葉書を焼いてきたのね。改竄だけじゃない、記憶を物理ごと削る。彼らにとって消失は浄化だと彼らは言う――でも、なぜ葉書に青い粒子が付くのか」男は震える声で言葉を吐いた。「証票だ。古い者が持つものだ。縫切の中にも、その力を恐れて使わない者がいる。あの染みは……触媒になるって、長老が言っていた。だから奪う、あるいは焼く、そうしなければ選別は守れない、と」ロウの拳が固く閉じる。
「選別、浄化――それなら双方、夜鳴局を潰したがる訳だ」結が低く呟いた。透は何も言わない。言葉が思い出せないのか、あるいは言葉の価値を失っているのか。律子が男の供述を記録しながら、動悸を押さえるように息をついた。「このままでは、我々がただの古物として消されてしまう。私たちのやっていることが『非効率』と判断されたら、局ごと閉鎖される。市民の支持があっても、行政の数式に勝てるわけではない」
局の外では、市民やリスナーからの支持の声が確かに届いている。通夜のような静かな夜に、出たばかりのラジオから聞こえた灯りを頼りに集まった人たちの小さな手紙は、局の受付で山を成している。だがそれと同時に、通信庁の強行的な書面は動き始めている。律子はデータログを重ね合わせ、受信ログの変化と電話の記録を並べた。「社会的には支持が上がっている。だけど行政は、効率とリスクを重ねて評価している。縫切との衝突が公になることが、さらに局を危うくする」彼女の瞳の奥には、次に打つべき戦略が浮かんでいる。
その戦略を決定づけたのは、ロウの手にあった小さな紙切れだった。「本隊の位置だ。俺は明け方に出る。奴らの前線で何が行われているか見てくる。必要なら接触し、連中の内情を掻き乱す。お前らは局を守れ。結は結晶の補強を、律子は記録を整理しておけ」ロウは立ち上がり、サッと荷物をまとめる。その背中はいつもの豪放さを保ちながらも、どこか硬い。ミミがロウの足元まで駆け寄り、短く鳴いた。透は言葉を探して彼を見た。ロウは振り返り、にやりと笑った。「戻ってくるって約束しろよ」透はしばらく黙っていたが、かすかな笑いを返した。「戻ってきて。戻ってきてよ、ロウ」
結は工具箱を抱え、結晶格納室へと向かう。律子は古文書の束をかき集め、上着のポケットにいくつかの葉書をそっと差し込む。透はブースのマイクに手を置き、残された声の断片を確かめるように軽くつぶやいた。声はほんの一瞬、古い放送室の響きを取り戻した。そこに、もう一度だけでも、その声が誰かの合いの手になることを望む気持ちが宿っている。
外では夜が薄く明け始め、街灯の輪郭が淡く伸びる。郵便受けの中で、先ほどの新しい葉書が気配なく揺れた。律子がその存在を思い出し、窓の外を見やる。「ロウ、危険だ。向こうは武装している。だが彼らにも、我々に味方する者がいるらしい」ロウは肩に掛けた袋の中で、何かを指で確かめるようにした。彼の指先に、縫切の徽章に似た影が一瞬見えた。
扉がゆっくり閉まる音とともに、夜鳴局はそれぞれの役割へ動き出す。透は消えかけた世界の輪郭の中で、まだ微かな芯を感じていた。自分が何を失ったかを数えるより、何を守るべきかを考える。ロウが外へ踏み出す瞬間、彼は後ろを振り返りもしなかった。ただ、低く言った。「戻る。備えろ」結は工具を締め、律子は最後のページをめくる。そして、透はマイクに顔を近づけ、小さく呟いた。「僕の声を、聞いていてくれ」その言葉は静かに局の空気に溶け込み、遠くの街角まで届くかもしれない祈りのように消えた。
ロウの足音が階段に消え、局内には残された四人と一匹だけが残される。新たに届いた葉書の封を開けるべきかどうか、彼らは短く目を合わせた。誰も即答しない