戦場写真館の修復士

戦場写真館の修復士 第18話「第16章」

田島がコピー用紙を指でなぞった瞬間、部屋の空気が一度張り詰めた。薄暗い写真館の卓上で、古びた文字列が白く浮かび上がる。――整理十三。下に、墨のにじんだ名前がある。三谷 みつえ。

田島がコピー用紙を指でなぞった瞬間、部屋の空気が一度張り詰めた。薄暗い写真館の卓上で、古びた文字列が白く浮かび上がる。――整理十三。下に、墨のにじんだ名前がある。三谷 みつえ。

「ここにいたのか」田島の声は低く、震えていた。彼は手記の頁とあの破れたアルバムを交互に見比べ、解読した一行を何度も目に刻みつけるように息をついた。窓の外では港の遠景が灰色に揺れている。夜がまだ重く、鐘の音はまだ届かない時間だった。

和はその名前を、紙の上ではなく自分の胸の内に留めた。三谷──みつ──え。指先が包帯の縁を撫でる。眠りの底から引っ張り出したかのように、どこかで聞いた名の残り香があった。だがその輪郭は脆く、触れれば壊れそうで、彼女は自分がどれほどその名を求めているかを、改めて思い知った。

「整理十三には避難所の記録が集められているらしい。旧役所のファイルを田島が照合して見つけた」紺野が言った。彼女はメモ帳を胸のあたりで小さく抱え、言葉を選ぶように続ける。「だがそこは役所の内部でも管理が厳しくて、その場で公開されることはまずない。改竄の痕跡もある。もしそこにみつえさんの名があるなら、ネガや補記が別ファイルに隠されている可能性が高い」

安西はテーブルの端に資料を積み上げ、ため息交じりに付け加えた。「正式に出すには時間がかかる。だが……整理十三の現物までは、法的手続きで動かされない可能性がある。私が内から動けば、少しは足場を作れるかもしれない」

小林は黙って拳を握り、小さな地図を広げた。そこには白潮の古い区画図が薄く印刷され、整理十三とされる場所は役所の旧倉庫群の一角に記されている。地図の上に田島が指を置くと、彼の指先は震えた。

「行くのか」田島は和を見た。彼の眼差しには、期待と恐怖が混ざっている。恐怖は和に向けられていた。ここ数週間、和が修復で差し出してきた代償を彼は誰よりも知っていた。忘却は破片から始まり、確実に核心へと向かっている。

和は小さく笑った。笑いは乾いていた。「行く。整理十三に。みつえさんの痕跡があるなら、確かめたい。直接、住民の記憶を辿って写真を集める。田島、安西、紺野、小林、みんなで行きたい」

田島の顔が険しくなる。「お前、また欠光読を使うつもりか。修復はできるかもしれない。だが代償は――」

「分かってる」和は割って入った。「分かってる。でも、黙っていることは、誰かの記憶を永遠に奪うことと同じだ。私の消失は私のものだけじゃない。町の誰かの名前が消えているなら、その人を拾い上げるために使う。それが私の仕事だ」

紺野は目を伏せた。「そしてその代償は、あなたの人生の一部を奪う。でも、和がそれを望むなら、私たちは守る。記事にして外へ出すかどうかは後だ。まずは事実を掴む」

安西が資料をまとめ、声を抑えて言った。「整理十三の現物に触れられるかどうかは分からない。だが、近隣に避難所にいたという老人がいる。まだ記憶を頼りに生活している人たちだ。まずは彼らの手許を回って、写真と記憶を集めよう」

こうして四人の計画は定まった。田島は和の修復に必要な機材を鞄に詰め、紺野は取材用の小さな録音機を仕込み、安西は役所の古い連絡網に当たった。小林は外套の襟を正し、言葉少なに鍵束をポケットへ押し込んだ。

最初に当たったのは、港の外れに住む池原という老人だった。白い髭を長く伸ばし、眼は穏やかで湿っていた。老人の家は古い写真が何枚も並んだ独特の匂いを放っていて、和はその匂いに、どこか安心する自分を感じた。修復師としての感覚だ。写真が年月を抱え込んだ匂いは、町の記憶そのものの匂いでもあった。

「整理十三の頃かい?」池原は和を見て、ふっと笑った。「子供の頃に行ったんじゃ。俺は郵便係でな、避難者の名を手で書いた。あの時は皆、名前を持っていた。だが──」老人の声が途切れる。指先で空気を切るような仕草をした。「ある夜、黒い布をかぶった人間が回ってきた。役所の人間じゃなかった。『保全』という名目で写真を回収してな。赤ん坊の写真も含まれていた。親が泣いてな、だが『消す』と簡単に言われてしまった」

紺野のペン先が走る。田島は額にしわを寄せている。和は写真の山に手を伸ばした。薄いガラスの皺を越え、黒と白の顔たちが眠っている。彼女の指先が一枚に触れたとたん、写真縁の「冷たい光の欠け」が指先にまとわりついた。欠光読が反応する兆候だ。

写真は避難所の入り口を写した群像写真だった。中央に白い布の子供が抱かれ、右側に見えるはずの母の手が、妙に不自然な空白となっている。そこには増やされた影のような欠けがある――誰かの手が意図的に写真の中から抜かれているように見えた。

和はゆっくりと息を吸い込む。欠光読は条件に従う。写真そのものに強い感情が残っていること、撮影者の願いが写真に刻まれていること。この写真の撮影者には、家族を守りたいという強い、切実な願いが残っている。彼女の胸に、撮影者の願いの輪郭が触れてくる。

スローモーションのように、写真の白い部分が薄く色を帯び、空白の周囲に細い線が走り出す。和の視界に、撮影者の視点が積もり始める。テントの中のざわめき。兵の巡回の足音。撮影者の手が震えている。シャッターを切る直前、誰かが子供を隠すように引き下ろす仕草をした。願いは明快だ――この子を、今この場から守れ。見せないでくれ、連れていかないでくれ。

和は指先でその欠けをなぞる。物理的な修復ではない。彼女が読み取るのは「欠けた光」の意味、撮影者の未完の行為だ。欠光読は写真の事実を変えない。だが撮影者の願いを可視化することで、人の動きを促す手がかりを与えることはできる。和はその線を静かに追った。

「この写真の撮影者は、子供を隠すために手を伸ばしている。『見つからないで』という欲求が強く残っている。でも、写真の構図そのものを改竄した痕跡がある。意図的に手を抜いたようだ」和は言葉を紡ぐ。その声に、写真館の空気が引き締まった。

池原は目を閉じ、掌を合わせた。「ああ……その匂いの男か。黒布をかぶった者が、写真をチェックして、良からぬ紙にマークをつけていった。『保全』『整理』と書いてな。あの時、みつえの親は子を抱いていなかった。子供の写真だけが残った。翌朝、その子の名は名簿から消えていた」

その言葉に、和の中に小さな火が灯るのを感じた。しかし同時に背後で、誰かが息を仕切るような音がした。安西の額に薄い汗が芽生えている。紺野は録音機を止めた。田島が急に前のめりになり、和の肩に手を置いた。

「和、やめろ」田島の声は優しく、だが強い。彼は和の手を両手で包み、目を真っ直ぐに見据えた。「頼む。写真を読むたびに、お前は何かを失っている。俺たちはそれを見てきた。これ以上、自分を削るのはやめろ」

和は田島の手に気づき、彼の掌の温度を感じた。田島の手はいつも硬くて、修復の工具を扱う時の油の匂いがした。和は笑ってしまいそうになった。笑いは悲しさと親しさを同時に帯びている。

「田島、私にとっては選ぶということだよ。誰かの名前がここにある。それを取り戻すために、私は私を差し出す。あなたはそれを止めたいかもしれない。でも私は──」

和は言葉を続けられなか