遺失物課の鑑識員

遺失物課の鑑識員 第20話「第18章」

朝の光はいつもより淡く、遺失物課の窓ガラスを通して机の上に落ちていた。紬はコーヒーを一口すすり、手帳の隅に丸をつけた旧北口の座標を何度も目でなぞった。指先が痣へ触れると、じんとした温度が走る。鳴海の封筒はまだ箱の中で鍵をかけられている。開けることはしないと自身に誓ったはずだが、その重みは胸の奥に鈍く残っていた。

朝の光はいつもより淡く、遺失物課の窓ガラスを通して机の上に落ちていた。紬はコーヒーを一口すすり、手帳の隅に丸をつけた旧北口の座標を何度も目でなぞった。指先が痣へ触れると、じんとした温度が走る。鳴海の封筒はまだ箱の中で鍵をかけられている。開けることはしないと自身に誓ったはずだが、その重みは胸の奥に鈍く残っていた。

「来ますよ」葵が端末を閉じて、軽く肩を叩いた。彼女の顔は仕事の証明書類を並べた書庫のように落ち着いているが、目はいつもより鋭かった。

紬は黙って頷く。先週、自分が私情で再生を行った――その代償は、実利的にも、そして職業倫理的にも取り返しのつかない波紋を広げていた。失ったのは、親密な一つの記憶。だがそれは、ある重要な証跡の時間的連鎖に直結していた。監視カメラが死角だった現場で、紬が見た「最後の交代のやり取り」だけが、人物をつなぐ唯一の手掛かりだったのだ。今、その記憶は穴として残り、誰の手にも触れられない。

廊下の足音が近づく。石神が書類の束を抱えて入ってきた。表情は堅く、しかしどこか決意が見える。

「説明を要する。」石神はドアを閉め、書類をテーブルに置いた。「監査課から直接の問い合わせが来た。『再生使用の正当性と記録』だ。昨日の件で、法務の方からも照会が入っている。表に出る前にこちらで整えるが、正直言えば状況は厳しい」

言葉に重さがある。紬は息を吸い、使い古した声で答えた。「全部、正直に説明します。私が私情で判定し、再生をした。規定外のことでした。代償も受けました。失った記憶が捜査の鍵となることは認識しています。申し訳ありません」

石神の視線が痛い。だが彼は首を振って、紬の肩を軽く押した。「謝罪は必要だが、それだけでは済まない。外に出る前に、我々は事実を整理し、代替手段を提示しなければならない。葵、代償の数値はどうなっている?」

葵は端末を開き、幾つかのグラフを映した。脳波変動、記憶索引の減衰曲線、そして紬の生体同期データ。数値は冷酷に事態を語る。

「代償インデックスは、先週の再生で顕著な上昇を示しています。穴の部分は、検査的に『欠落領域』として可視化されています。他者の再生技術でもそこだけは共振しない。つまり物理的な証拠があれば補填できるが、紬さんが見ていた言葉、口調、細かな感情表現そのものは再現不可能です」葵の声は平坦だが確実だ。「法的に重要な証言の一部が欠落していると判断されれば、我々の取り扱いの適正性が問われる可能性があります。監査は証拠管理とMRQの運用遵守を重視しますから、厳しいかもしれません」

紬は痣の辺縁に爪を立てたくなる衝動を抑えた。失われたのは、凪が夜に差し入れてくれた言葉かもしれない。あるいは石神が笑って言った冗談かもしれない。確かなのは、それが「最近の、自分だけが覚えていた」記憶だったということだ。誰かがそれを代わりに語ることはできない。痣の疼きは、記憶が身体に刻まれている証でもある気がした。

数時間後、査察官二人が大きなファイルを携えて遺失物課にやって来た。白い名札の向こうに無味乾燥な視線がある。

「遺失物課の責任者の方、及びMRQ保持者の方にお話を伺います」リーダーの女性は手早く名簿をめくった。「対象は再生ログ、物理押収リスト、補完証拠。それと、再生が『私情で判定』に該当するか否かの説明を求めます。真実は公正に扱わなければならない」

石神が整然と答え、葵が電子データを提示する。凪は現場の検証報告を紙袋から取り出し、細部の図を示した。紬は端で伏せた目を開け、監査官の顔を見た。自分の口から出る言葉は、いつもより重かった。

「私情で判断したのは事実です」紬は低く言った。「理由は…個人的な動機がありました。前世の断片に繋がる可能性があったからです。規則を破ったことは認めます。代償を支払いました。代償によって失った記憶は、当該事件にとって重要な部分でした。私は、そのことを深く後悔しています」

監査官の一人がメモを取る。沈黙が長く続き、どこからか時計の針の音だけが忍び寄る。外のホームには、知らない誰かの朝の足取りが絶え間なく流れている。

「MRQの運用は、『公共のため』が前提です」リーダーは静かに言った。「個人的動機での使用は条例で禁じられている。今回、紬さんの使用が判定の境界線に触れていたということは、運用責任に関わる。遺失物課として、どのような是正策を提案しますか?」

石神が前に出た。「我々は既に内部規程の見直しを進めています。再生使用の二重承認体制、録画ログの保存、使用時の感情自己申告。葵が代償のモニタリングシステムを導入し、閾値を超えた場合は即時停止する仕組みも設ける。紬本人も自主的な休職も検討しましたが、現場の事情と技術継承の観点から、即刻の停止は得策ではないと判断しました。代わりに、外部監査の下での運用と、我々の改正案の速やかな実行を提案します」

監査官は書類をめくり、端で葵が示すグラフをしげしげと見た。やがて彼女は顔を上げた。

「法務と協議した上で、暫定的にMRQの一部業務を限定した監督の下で続行することを容認します。ただし、紬さん個人に関しては『感情自己申告』の厳格運用と代償管理の外部報告を義務付ける。次の監査で改善が見られない場合は、資格停止も検討されます。覚えておいてください。公共を守るための道具は、公共のルールのもとで動かなければなりません」

その言葉は紬の胸に冷たい灯を灯した。停止の二文字は喉に重くのしかかったが、同時に救いでもあった。もし自分が今、完全に職務から排除されれば、前世の真相に到達する手がかりは益々遠のく。だが公共を犠牲にしてはならない。鳴海が何度も言った通り、守るという行為は刃の両刃である。

監査が一通り終わると、課は臨時会議へ移った。凪は小さな紙片をいじりながら言った。「俺は…お前を責める気にはならない。あの日、俺は現場でお前の決断を見てた。目的は分かる。だが、お前の代償は俺たち全員の問題だ。チームとして、次はもっと堅く守る。分かるか」

紬は凪を見た。彼の目には怒りよりも心配が滲んでいる。葵は端末に向かって淡々と報告書をまとめながら、ふと顔を上げて紬に一言だけ付け加えた。

「代償は数値化できます。だが『穴』は他者が補填できない。だからこそ、我々は防ぐ方法を作る。あなたは触れるときに、より多くの鏡を持つ。二人の承認、物理的証拠の同時収集、そして私が『代償警告』を出したら即刻中断する。そう決めましょう」

石神が深く息をつき、紬の側に寄った。「罰は必要だろうが、破罰ではなく再生だ。お前は職務に忠実であり続けた。だが一人で抱えるのはやめろ。次にお前が選ぶとき、我々はついていく。我々の仕事は真実を返すことだが、そのために人を破壊してはならない。お前の穴は取り戻せない。しかし、それを埋めるのは誰かの記憶ではなく、我々の行動だ」

紬は肩を震わせた。涙は堪えたが、胸の底で何かが折れる音がした。鳴海の封筒の重さ、その中にあるかもしれない前世の断片。彼女は指先を痣へ添え、静かに誓う。

「私は私情で触れません。公共のための再生だけを行います。封筒は、旧北口の物理サーバと共に押さえた後に開けます。それ