遺失物課の鑑識員

遺失物課の鑑識員 第2話「第1章」

塩のような匂いが混じる空気の中で、紬はブレスレットを掌に包み込んだ。金属の冷たさはすぐに手のひらの熱で和らぎ、指先に伝わる微かな凹凸が、持ち主の指の動きを思い起こさせる。三十秒。頭の中で数え始めると時間は意外にも長かった。だが再生は猶予が与えられているわずかな刹那だ。躊躇すれば断片は消える。彼女は絶対に私情で判定してはならない、そう自らに言い聞かせた。

塩のような匂いが混じる空気の中で、紬はブレスレットを掌に包み込んだ。金属の冷たさはすぐに手のひらの熱で和らぎ、指先に伝わる微かな凹凸が、持ち主の指の動きを思い起こさせる。三十秒。頭の中で数え始めると時間は意外にも長かった。だが再生は猶予が与えられているわずかな刹那だ。躊躇すれば断片は消える。彼女は絶対に私情で判定してはならない、そう自らに言い聞かせた。

「準備はいいかね、安藤さん」石神の声はいつもより低い。遺失物課の小さな面談室には窓の外から駅の雑踏が薄く届く。安藤絵里は震える手でからかんとした笑みを作り、ブレスレットに額を寄せた。「……いいです。お願いします、お願いします」

紬は手袋をはめずに、しかし持ち主以外に触れさせないよう慎重にブレスレットを握った。再生は触れた者と持ち主のみに閉じられる。法の縁に立つ資格として、紬はそれを守ることを職務の要とした。掌の内側が微かに熱を帯び、彼女の左手の痣が薄くひりつく。いつもよりほんの少しだけ。痣は彼女の身体の一部でありながら、説明のつかない信号を送ってくる存在だ。今はなお押し黙らせるしかない。

「三十秒よ、集中して」紬は息を整え、内側で数を刻む。頭の中の焦燥を外套のように脱ぎ捨て、職務的な距離を取る。再生は映像にとどまらず、匂い、温度、感触まで再現する。紬は医者の心得のように、目の前の他者の治癒を目的にしてその場に立つ。

最初に来たのは温度だった。掌に広がる温もり。次いで湿った空気、木々の匂い。薄い空気の重みが視界を満たし、雪が──いや、白い粒が手の中に落ちる感触が口蓋を震わせた。スローモーションで降る雪は皮膚の毛穴を冷やし、指先で溶ける。視界は揺れ、二人の輪郭が近づく。彼女は幼い笑顔で、男性に抱きしめられている。風が煤の匂いを運んだ。煤の中で、焦げた切符の端が黒い星のように浮かんだ。

「ねえ、行かないで」その声は耳元で破れ、鼻の奥が熱くなった。男性は何かを必死で掴もうとしている。二人の手の間に映る切符は、角が焦げてささくれ、誰かが無理に引きちぎったようだった。紬はその断片に強く視線を引かれ、同時に掌の痣がまたひりついた。だが彼女は私情を持ち込まない。これは持ち主のための再生だ。

映像が止まり、現実の面談室の光が戻ってくる。安藤の顔は真っ赤で涙が伝い、ブレスレットを噛みしめるように抱きしめた。「あの……本当に……あの瞬間が……」言葉が喉で潰れ、嗚咽になる。何かが戻されたのだ。紬は膝の裏に冷たい感覚が残るような錯覚を覚えたが、それはすぐに消えた。代償は発動しなかった。彼女は自分がルールに従っていることを確認し、安堵した。

葵がすぐそばに寄り、白手袋で慎重にブレスレットの残留物を採取した。端末に接続された小さな分析器が淡い光を放つ。「金属腐食のパターンに、微量の黒色粒子が混じっています。普通の焦げではない。分析結果を即座に出すわ。成分は……」葵の指がタップする。彼女の声音はいつも冷静だが、目に小さな光が走った。「難燃処理材の残骸、だけど通常のものとは組成が違う。特定の古い施設で使われていた試薬に近い痕跡よ」

凪が箱の奥にあった角材の隙間から顔を覗かせ、思わず息を呑む。「焦げカスが付いてたって聞いたけど、そんなものが出てくるなんて……」彼女は指先で棚の端に触れ、すぐに引っ込めた。紬は手を伸ばして制した。対象物への不用意な接触は、証拠の汚染にもなり得る。凪は小さくうなずいた。「すまない。つい」

鳴海は部屋の片隅で古い写真の角を滑らせるように触っていた。白黒の粒子のように目に浮かぶ人物たちの輪郭の中に、駅の古いプレートが半ば写り込んでいる。文字は剥がれ落ち、ほとんど判読できない。鳴海は口元に手を当て、誰にも気づかれないようにつぶやいた。「旧名プレートの痕跡ね……随分前の話だが、あの設備で使われていた薬品が関わっているかもしれない」

石神が枕のように肘をついて、鋭い視線で四人を見回す。「幻市の匂いがする。条例があっても、記憶断片を商品化する輩は動いている。先に関連の疑いが出た物件は、すべて慎重に扱うこと。紬、君は今日の再生で正しい判断をした。私情を挟まなかった。それを忘れるな」

紬はうなずいた。胸の奥の霧は揺らいだが閉じられている。前世の断片を手繰り寄せる焦燥は常にあった。それが彼女が遺失物課にいる理由でもあった。だが職務と私情は紙一重だった。規則は厳しく、代償は残酷だ。もし私情で再生を用いれば、能力は発動しても紬は直近の感情に結びつく記憶を一つ失ってしまう。仮にそれが自分の前世に関わる断片だったとしても、取り返しはつかない。紬はそれを何度も自分に言い聞かせてきた。

葵が端末の画面を紬に向けた。ログに残る匿名の問い合わせメールだ。件名は「焦げた切符についての照会」。本文はほとんど白紙だが、添付に位置を示す短い文字列があった。葵の指先が画面で踊る。「送信元は匿名、でも時刻は一時間前。本文は挑発的で、こちらの出方を見ている。『夜の十一時、旧構内三番線に来い』とだけある。差出人登録はなし」

その瞬間、動かなかった部屋の空気が切り替わった。旧構内──あの錆びたプレートが残る場所。三番線はほとんど使われていないとされるが、目撃者は絶えなかった。幻市が取引の場として旧構内を使うことは可能だった。紬の左手の痣がまた小さく疼く。理由はわからない。だが彼女は胸の鼓動を抑え、証拠を封入するよう指示した。

「まずは化学解析を進める。どの施設で使う処理剤か、焼け方のパターンから推定するわ」葵は淡々と言った。凪は拳を軽く握り直し、顔を真剣にする。「俺、夜に回れる。現地調査でも何でもする。幻市の奴らに聞き込みをしてくる」

石神が手を上げ、言葉を切った。「だが、現場は危険だ。私的な好奇心で行動するな。公的な手段で、手順を踏め。紬、君自身も感情で動くなよ」

紬は石神の目を見返し、静かに笑った。「わかっています。私情は挟みません」声は平静だったが、胸の中の何かが固く結ばれるのを感じた。鳴海の写真、焦げた切符、左手の痣。線が一つに繋がるという確信はなかった。ただ、臭い立つような「始まり」の匂いだけが確かにあった。

証拠袋に封入した切符の端を紬はもう一度手に取り、指の腹で触れた。焦げている部分は黒く粉を吹き、紙の繊維が潰れている。近代の燃え方とは少し違って見える。葵の解析結果が示唆する「古い処理剤」の痕跡が、旧設備の名残と一致する可能性を紬の中で膨らませた。

「夜の三番線か」鳴海が小さく笑みを浮かべ、古い写真を引き出しの中へ戻した。その指先の動きは無言の含みを持っていた。「古い設備図がある。もし君たちが本気で行くなら、昔の設計図は役に立つかもしれない」

石神がため息をつき、しわだらけの手を合わせる。「準備を整え、法的手続きを踏め。夜に出るなら二人一組以上で。無闇に単独行動は許さん」

凪は軽く肩をすくめた。「了解。二人で行けば何とかなるさ」だが彼の目は紬に向けられた。紬はその視線を受け止め、ほんのわずかに頷く。彼女は自分が単独で真実に近づくことを望んでいるのが、職務として許されないことも知っていた。仲間の存在が盾になる。

「まずは解析の結果を待とう」紬は