遺失物課の鑑識員

遺失物課の鑑識員 第14話「第一部幕間」

古い資料室に差し込む蛍光灯の光は、時折はげかけた天井板の隙間から冷たく洩れた。空気は埃を帯び、古い紙の匂いが立ち込めている。鳴海遥が差し出したフォルダの端が、蛍光の下でばらばらと紙片を見せた。半透明のポリ袋に入った複写、ざわつく注釈、そして、あまりに鮮明すぎる一行の文字列。旧駅名の断片が、そこにあった。

古い資料室に差し込む蛍光灯の光は、時折はげかけた天井板の隙間から冷たく洩れた。空気は埃を帯び、古い紙の匂いが立ち込めている。鳴海遥が差し出したフォルダの端が、蛍光の下でばらばらと紙片を見せた。半透明のポリ袋に入った複写、ざわつく注釈、そして、あまりに鮮明すぎる一行の文字列。旧駅名の断片が、そこにあった。

「これが全部じゃない。だが、これだけでも十分に意味がある」鳴海は指先で文字列をなぞりながら言った。声にはいつもの淡い抑揚だが、その奥に沈んだ痛みがある。紬はその痛みに見覚えがあった。鳴海の指先の震えは、彼女自身が抱える震えとどこかで波長を合わせている。

石神達也がフォルダを受け取り、短く息を吐いた。「監査が入る。外部からだ。代償の件が表沙汰になれば、我々の行動全てが問われる。紬、事情を説明しろ」

紬は顔を逸らし、痣のある左手を手袋で隠した。そこが眼前で問題になることを、彼女は嫌でも理解していた。彼女が第六話で犯した「私情による再生」は、ただ仲間の一員を救うための行為だった。だが規則は規則であり、能力の代償は現実の損失として彼女の胸に穴を開けていた。

「私は……職務優先で行動しました」紬の声は低く、震えた。「再生は職務の範囲で行い、私情を持ち込まないと誓っていました。ですが──私情で判定してしまった。代償が発生し、近年の記憶の一つを失いました。それが捜査に影響したという指摘が来ています」

葵が手元の端末をスクロールしながら、静かに数字を並べ立てる。「代償で失われた記憶は『穴』です。他者の再生でも回収できない。法医学的には、その部分の証言や行動記録は永久に欠落する。監査側は、それを重大な職務怠慢と見る可能性が高い」

「我々はどこまで公開するつもりだ?」石神は問うた。彼の目は厳しく、でも決して憎む色はない。部下を守るための厳しさだ。

鳴海はゆっくりと首を振った。「全面的に隠すのは無理だ。だが全部をさらすのも危険だ。公開するならプロトコルに基づき、リスクを最小化する形で出さねばならない。いずれにせよ、我々の立場は弱い。だが、私的利用が行われた痕跡を掴まれたら、幻市への接続が疑われる」

会議室の空気が重くなる。凪は椅子の端に座り、小さく腕を組んでいた。まだ若く、だが眼光に揺らぎはない。「監査が来るなら、俺らが仕事で積み上げた証拠を示すべきだと思います。幻市から押収した品や、葵が割り出したIPアドレス、鳴海さんの写真の一致点。そこを繋げれば、紬個人の過ちが組織的な問題の一部であることを示せる」

葵が表情を薄くした。「ただし、公開は段取りが必要です。紬の失った記憶──その"穴"が調査の要情報だったと仮定すると、我々の時間的猶予は短い。監査と同時に、幻市の取引ルートを物理的に押さえる準備を進めるべきだ。旧構内のあの倉庫に、幻市の保管物がある可能性が高い」

「旧構内か」石神が拳を軽く握る。「そこが黒ならば、上の連中と直結している可能性が出る。ここで引き下がれば、紬の個人的な代償だけが問題にされる。だが突入すれば、我々は合法的な証拠を得るチャンスを持てる。判断は皆の意志で決める」

紬は痣のあたりを軽くさすった。皮膚の下で不意に小さな疼きが走る。まるで子供の頃の秘密の傷が反応するような鈍い痛みだ。それは彼女に、触れられたものが記憶の核を揺さぶるときにいつも現れる。鳴海は、その癖を見逃さなかった。

「紬、触らない方針でいいか?」鳴海の問いは簡潔だが重い。「あそこで何かを見つけたとして、あなたが個人的な理由でそれを再生するのは禁忌だ。規則もあるが、それ以上に代償が不可逆であることは認識してほしい」

紬は静かに頷いた。「わかっている。でも、私が触れない限り、他の方法で再生できない遺失物もある。職務には正しい返還と、真実の保全がある。私は、私情を挟まずに公共的な再生を行う方法を探す。必要ならば事前合意を得て、複数名で判断を下す」

石神は眉をしかめたが、やがて軽く息を吐いて笑ったように見せた。「よかろう。我々は規則の守り手であると同時に、その守りを壊す連中と戦わねばならん。だが紬よ、忘れるな。私情は人を動かす。お前がそれに飲まれるとどうなるか、我々は知っている」

その言葉に紬の肩がひくついた。胸の奥に、失った記憶の残像がふと浮かぶ。名前のない笑い声、手を振る誰かの感触。だがその映像は、指の隙間から粒子のように零れ落ちていく。穴は喪失の形でそこにある。葵の端末は冷徹だった——データ上、その分の時間の軌跡は丸ごと欠落している。

「監査が法廷にまで持ち込まれれば、我々は遺失物課の正当性そのものを問われる」と葵。彼女はいつも通りに数字を出した。「紬さんの代償発動以降、記憶の完全性を保証するデータの空白が二件確認された。幻市の偽造再生が露見した案件と時期が重なる。因果関係は断定できないが、疑念が生じるのは容易い」

凪が立ち上がり、肩を回した。「じゃあ、俺らは現場で動く。旧構内に入って、物理的証拠を持ち帰る。外での監査には、我々が持ってる物で反論するんだ。紬は現場では記録係に徹してくれ。葵、外部との連絡を頼む。鳴海さんは法的な手筈を整えて」

鳴海は短く頷いた。「それでいい。だが、紬の代償を盾にするような暴挙は許さない。もしもお前が私情で再生を望むなら、その前に私が反対する」

石神がテーブルに手を置き、皆を見る。「決定だ。動く。だが繰り返す、誰か一人の判断で再生を行ってはならぬ。合意ないし正当な手続きによるものだけを限度とする。紬、貴様に尋ねる。もし旧構内で"あの切符"が見つかり、それが前世の断片と一致したらどうする?」

紬は一瞬、言葉を失った。胸の中にあった小さな火点が跳ねる。前世の顔、それを取り戻す衝動はまだ強く、しかし代償の恐怖がそれに冷水を浴びせる。仲間たちの目が自分に向けられている。彼らはただの同僚ではない。守るべき人々だ。

「私は、職務優先で行います」紬は、わずかに震える声で繰り返した。「もし必要な再生があれば、全員の合意を取り、それを公的な手続きの下で行います。私情で判定することは、二度としません」

合意には拍子抜けするほどの静けさが伴った。だがその静けさは脆い紙面のように薄い。外では風が吹き、古い駅の瓦解した看板がかすかに鳴る。葵が端末を閉じ、資料をまとめてフォルダにしまう。鳴海はフォルダの角を指で押さえたまま、何かを見つめている。

「一つだけ先に言っておく」鳴海が口を開いた。「このフォルダの中にある写真の一枚——私が長年、封印してきたものだ。お前たちがそれを見てどう動くかで、次の局面が決まる。旧構内へ行くのは物理的証拠を得るためだが、我々はそれだけで満足してはならない。相手はその先を狙っている」

石神が立ち上がると、部屋の空気も一緒に動いた。「準備を整えろ。夜明け前に出る。紬、君は記録と合意の要所を担え。鳴海、法律面のパッケージを。葵、データ保全と通信。凪、現場指揮を頼む」

紬は手袋をはめると、左手の痣を触らずにそっと押さえた。その感触は冷たく、しかし確かにそこにある。胸の穴が、また一度疼くような気がした。彼女は失った記憶が取り戻せないことを、そしてそれが永遠である