深海郵便の潜水士 第11話「第10章」
深層記憶庫を出た海は、いつもより粗暴だった。泡鯨号の操舵室に降りかかる水圧の重みが、三人の肩を押す。外套代わりの保温膜が彼らの体温をぎりぎり保っている。颯は手の中の包帯に巻かれたものを確かめるように指先を動かした。そこには、まだ湿った封蝋の薄片が数枚留まっている。澪方が送信した暗号化されたファイルの返送ログを確認すると、先刻送られた断片が浅層側の同盟ネットワークを通じて拡散されはじめているという通知が返ってきた。
深層記憶庫を出た海は、いつもより粗暴だった。泡鯨号の操舵室に降りかかる水圧の重みが、三人の肩を押す。外套代わりの保温膜が彼らの体温をぎりぎり保っている。颯は手の中の包帯に巻かれたものを確かめるように指先を動かした。そこには、まだ湿った封蝋の薄片が数枚留まっている。澪方が送信した暗号化されたファイルの返送ログを確認すると、先刻送られた断片が浅層側の同盟ネットワークを通じて拡散されはじめているという通知が返ってきた。
「外の様子は?」灯良の声は船内の空気よりも細い。浅層の局舎がどうなっているのか、彼女は想像を巡らせている。颯の目は、まだ泡の残照を追っているようだった。泡酔の切れ端が、胸のあたりでくすぶる。記憶の欠片が抜け落ちた穴を、彼は未だに感じていた。不在の時間が、長いテープの隙間のようにそこにある。
碧は操作卓の前で目を逸らさずに言った。「報告では、既に中層のいくつかの市場で封蝋の断片による感情漏出が起きている。映像の断片が光学掲示板に映って、群衆の一部は泣き、他は怒り出した。深層側でも管理局の出動指令が出ている。闇市場の反応も早い。彼らは露出をビジネスチャンスだと見ている」
澪方は腕を組み、顎の下で思考を巡らせた。「我々が引き出した断片がどこまで復元されているか分からない。だが座標の可能性が出た以上、各勢力が動く。管理局は封鎖を強める。自由港派は事態を利用して支持を集めるだろう。闇市場は──」彼女は言葉を切った。言葉の先にあるのは、既に露頭に上がったという噂の名だ。闇市場の顔役が公に姿を見せ、買い手に向けたサンプルとして記憶の一部を展示したという。
「顔を出したって?」灯良が眉を寄せる。浅層で育った彼女にとって、闇市場は絵本の挿絵のような存在だった。触れてはいけないが、絵の中では自由に動く影がいる。
碧は薄く笑った。「奴らに名前をつけるのは野暮だ。だが、首謀者と思しき連中が、今回の露出で利益を上げるために動いているのは確かだ。彼らは泡を商品化し、トレードの種にしている。市民が体験している感情の余波は、彼らが意図せずにもたらしたものだが、利用者はさらに出る。暴力も出るかもしれない」
颯は窓外に視線を戻した。深海の濃度が、街の灯りをにじませる。遠方の浅層では、断続的に赤い点滅が上がり、群衆の怒号のような波がエコーしていた。彼が見たもの、聴いた鈴音の断片、そしてあの夜の手紙の座標──それらが、海の中で誰かの手に渡ろうとしている。
「俺は……」颯は口を開いたが、言葉は泡のように細く消えた。「もっと読みたい、と言えば、この波はもっと強くなる。碧、澪方、灯良。俺が泡読を続けることで、誰かが救われるのか、誰かが傷つくのか。分からない。おまえらの時間を奪いたくない」
灯良の手が颯の腕に乗った。指先は震えていたが、動作は確かだ。「颯、あなたが読んだことが、誰かを救った。少なくとも、私たちは事実を受け取った。隠蔽されていたことを曝した。そこから何が起きるかは、私たちが選ぶんだよ」
選択は三つに見えた。真実をもっと引き出して市民に完全開示すること。断片をこれ以上晒さないために回収・封鎖すること。あるいは、その間をとって段階的に開示すること。どれを選んでも代償がある。颯の能力は、封蝋が未開封であるという条件──そして自身の寿命を削る泡尺の消耗という代償を伴う。澪方が外部へ流した断片は既に返せない。今、彼らが制御できるのは自分たちの次の動きだけだった。
碧は機器の一つを指で叩き、颯の包帯を覗き込んだ。「一つ提案がある。完全な回復ではないが、泡尺の消耗を部分的に補填する実験をやる。理論上は、泡の情報を外部記録装置で『再符号化』し、本人の神経パターンに合わせて徐々に同期させることで、抜けた記憶の連続性を回復できる。ただし──」彼女の目は冷えるほど真剣だ。「それは泡尺を取り戻すのではない。消耗の代償を別の形で移し替えるだけだ。短時間の記憶回復と引き換えに、肉体への累積ダメージを早める可能性がある。老化や神経損傷として現れるかもしれない」
澪方の指がテーブルを叩いた。「選択の余地はない。我々はこの先、颯が指揮を取れる状態でなければ動けない。だが科学は万能ではない。碧、失敗したらどうする?」
「それでも試す価値はある」と灯良。意外な強さを彼女の声に感じた。「颯に完全な体でいてほしい。もし颯がこのまま蝕まれていくのを見ているだけなら──私は耐えられない」
颯は静かに笑った。笑みは短く、苦みを帯びている。「おまえらを巻き込むなよ。俺は自分で決める。でも……」彼は震える指で封蝋の薄片を撫でた。「その実験で少しでも戻るなら、やってくれ。俺は、あの夜の一通の手紙の宛先を知らなければならない。灯良のためにも、澪方のためにも」
碧は頷いた。動作は早い。泡鯨号の機関室に戻り、彼女は一台の機器を引き出した。青く光る円盤、微細な電極の束、泡の流動を模した透明のチューブ。彼女が語る技術の名は新鮮だが、要約すればこうだ──泡の情報は物理的に再現可能であり、神経インタフェースを通じて記憶の復元を試みる。ただし、泡尺の消耗を直接的に補填するのではない。代わりに、消耗分を「装置の負荷」として外部に引き受けさせる。外部に引き受けるとはいえ、そのエネルギーは熱やイオンの形で機体に蓄積され、修理不能の損耗をもたらす可能性がある。
「成功率は高くない」と碧は付け加えた。「だが放置すれば颯はもっと失う。局の復元装置は酷く粗雑だ。私がやるのは、封蝋群と同じ基盤を持つ縮小された環境での同期試験。もし失敗しても、我々は記録を保って外部に流す。だが成功したら──颯は一歩先に進める」
実験は、終日続いた。碧は手際よく電極を颯のこめかみと手首に配置する。澪方は端末の前でデータの校正を続ける。灯良は傍らで一切の動作を補助し、目を離さない。外では潮の流れが彼らの軌跡にいくつもの小さな泡を残す。泡はどれも揺れ、光を拾っては消える。海は変わらず荒れていた。
装置が稼働すると、薄い電流が颯の皮膚を流れた。鼻孔に微かな金属の香りが当たり、彼は深呼吸をした。澪方は準備されていた断片の映像を送り込む。そこには瓦礫とインクの滲んだ紙、白いシャツの疲れた顔、そして――古い街並みのスケッチがあった。颯の瞼が震え、顎の筋が引きつった。
泡酔は装置を通じて人工的に誘発される。碧はモニターを見つめ、心拍数と脳波の乱れを追う。装置は颯の神経パターンと泡の情報を結びつけ、欠落した連続性を再構成しようとしていた。ただし、それは短絡するリスクを伴う。泡の強力な感情を断絶なく流し込めば、颯は再び泡層へ引きずり込まれる。彼の泡尺が短くなることは明白だった。
時間が止まったように感じられる間、颯は小さな声で断片を呟いた。「瓦礫……手紙の名前は──」彼の声は泡の中で崩れる。灯良が耳を澪方の方へ寄せると、端末上の文字列が一瞬点滅した。座標らしきものが、ほとんど判読可能に浮かんだ。澪方はそれをすかさず記録した。
だがそのとき、泡鯨号の外部検波が鋭いノイズを拾った。警戒音が短く鳴り、碧の顔が瞬時に引き締まる。「接近信号。三陸線上に非登録の航跡。複数、かつ高速。闇市場の回収隊か、それ