山岳救助犬の訓練士

山岳救助犬の訓練士 第7話「第6章」

朝が淡い鉛色に溶けていくころ、白梟の訓練場にはいつもより多くの足音が響いていた。報道の関心はまだ薄かったが、企業の広報車両が一台、二台と到着している。カメラはない。だが白いロゴを付けた男たちの視線は冷たく、村人の噂は既に山裾を伝っていた。

朝が淡い鉛色に溶けていくころ、白梟の訓練場にはいつもより多くの足音が響いていた。報道の関心はまだ薄かったが、企業の広報車両が一台、二台と到着している。カメラはない。だが白いロゴを付けた男たちの視線は冷たく、村人の噂は既に山裾を伝っていた。

澪はそれを見て、胸の中で小さな石が転がるのを感じた。ルカはいつものように伏せて訓練開始を待っている。だがその毛並みは、昨夜の捜索で見せた怯えの残り香を帯びていた。赤羽はルカの脈を確かめ、田島はロープやスノーソーを点検する。小野寺はタブレットの画面を睨み、時折誰かと短いメッセージを交わしている。

「今日のメニューは軽めにいく」赤羽が低く言った。「ルカの精神状態が不安定。昨夜の負荷を引きずっている。無理に接触を強いるのは禁則だ」

澪はそれでも、胸の奥に燃えるものを止められなかった。ミカがまだ見つかっていない。老松の根元で見つけた小さな計器――K-の刻印を持つあの筒――が示すものは偶然ではない。誰かがここで、犬を道具にした。ルカはその現場から遠くない距離で、何かを嗅ぎ取っていたのではないか。もしルカが「見た」ものがあるなら、澪はそれを受け取りたい。その一心で、彼女は自分を抑えた。

だが視残にはルールがある。触れなければ起動しない。犬の肩甲部に掌を当て、対象に犬が五秒以上心的接触をしていること——それがないと残像は生まれない。倫理規程は澪の行為を縛る。赤羽が言う通り、犬の心理的安全が最優先だ。澪はそれを反芻しながら、ゆっくりと手を伸ばした。

ルカの体温が掌に伝わる。毛がざらつき、微かに震えている。澪は深呼吸をし、呼吸を犬と合わせた。その瞬間、視界が引き裂かれるように変わった。色は白黒に沈み、コントラストだけが鋭く残る。犬の視線の低さ、地面の雪の粒子がハードに飛ぶ。そこに、短く断片的な映像が挿入された──手袋をした人の手、懐中電灯の光、地面に押し込まれる小さな円筒。誰かの低い声が「K-17」と言うのが聞こえた。澪はその声を聞いた瞬間、胸の奥が凍るような嫌悪を味わった。犬がその対象に五秒以上接触していた。その条件が満たされていたのだ。

映像はさらに続く。人影が振り向き、鋭い光が映像を切り裂く。ルカの鼻先に何かが飛んでくる感触。衝撃。黒い物体が犬の体を押し倒し、犬の目が驚愕で大きくなる。そこまでが一連の残像だった。断片は短いが、情報は重かった。誰かが訓練場の隅で器具を埋め、犬がそれに触れた。次いで何らかの衝撃でルカが倒れた。事故ではない、故意だ。

だが同時に澪の中に波が押し寄せる。映像から伝わるのは情報だけではない。恐怖の温度が、彼女の肉体に波状攻撃のように注ぎ込む。嗅ぎ慣れない匂い、金属と熱の匂い、犬の唸り、切羽詰まった人の息遣い。吐き気が腹に齧りつき、視界の端がノイズで揺れた。澪は掌を握りしめ、ルカから手を離した。

「あっ……」声は小さく、心臓が跳ね上がる。短い間、記憶の輪郭が曖昧になる。何を考えていたのか、さっき何をしていたのか、ほんの一瞬答えが出ない。赤羽がすぐに飛び寄り、ルカの側に回って脈を取る。田島は怒りに凝った顔で四方を睨み、監視カメラの位置を確認する。

「医的措置が必要だ」赤羽は冷静だが、声に緊迫がにじむ。「ルカは内部損傷かトラウマ反応が出てる。すぐに止血と鎮静を。澪、もう触るのは──」

「分かってる」澪は言葉を噛みしめ、顔を上げた。目の前に現れた残像の断片は彼女の中で血のように濃度を増している。視残は情報を与えるが、必ず「恐怖」も伴う。それは規則であり代償だ。だがその代償は、時として彼女の判断を蝕む。今までもそうだった。だがミカのために知る必要がある。澪は自分にそう言い聞かせた。

訓練場には短時間の騒然が生まれた。というのも、その直後に、スマホ片手の村人が小さな映像を寄越してきたからだ。低解像だが確かな映像。暗がりの中で誰かが円筒を埋め、手慣れた動作で土をならす手元が映っている。投稿は既に数人の間で回されており、小野寺の指先は震えながらタブレットを操作した。

「これ、外から流れてきた」小野寺が吐息を漏らす。「あの影……手袋の模様がカーディアのユニフォームによく似てる。まだ断定はできないけど、フレームを拡大してノイズ除去してる。もし一致するなら、あの会社がこちらのコードネームを知ってることになる」

田島の拳は自然と固まる。「また出入りがあったのか。先週の倉庫の件と繋がる。おれは直接聞きに行く。県警には知らせてあるが、ここは地元の手で事実を固めるしかない」

そこへ、訓練場を歩いていた広報の男が近づいてきた。顔に笑みを貼りつけていたが、その目は鋭かった。「このたびはご迷惑をおかけしました。弊社としても調査を協力します。ですが、公表は慎重に——誤解が生じないように」声は善意を装っている。だが澪はその笑みに言い知れぬ嫌悪を覚えた。昨夜の装置の刻印と今の映像と、企業の車両ログが重なり始めていた。

「協力しますって、犬が負傷してるんだ」田島の声が低くなる。「ここの誰が納得する。証拠は保全させてもらう。勝手に回収したりしないでくれ」

広報はすぐにスマホをいじり、上席に報告するふうを装いつつ、澪の顔をまっすぐに見た。「まずは冷静に。誤った情報で事が大きくなると、犬たちの安全確保が難しくなる」だが彼の後ろにいた一人が小声で指示を飛ばすのが見え、澪の背筋に鳥肌が立った。公の場での圧力が既に形成されている。映像の拡散を抑え、公の声明で矮小化しようとする力が働き始めていた。

「隠蔽はさせない」赤羽が言った。「証拠を警察と共有する。メディアには事実関係が固まるまで控えるようお願いする。ルカの治療が優先だ」

だが小野寺は首を振る。「それは理想論だ。現実、会社は強い。公に出せば彼らの弁護士が速攻で動く。証拠は操作される。データは改ざんされる。手順を踏まないと、私たちが負ける。まずは証拠を固める。カメラのバックアップ、車両出入りログ、周辺監視の未公開映像。こちらで先に押さえる。法廷で戦える形にしよう」

田島は短く唸り、両者を見た。「どっちも正しい。だが犬は今ここにいる。ミカがどこで何をされているかも問題だ。俺は夜の捜索を命じる。法的整理は小野寺と赤羽に任せる。澪は……お前に頼む。ルカの視残で、事故の瞬間を拾ってくれ。だが回数は厳禁だ。赤羽の指示に従え」

その言葉は厳しく、だが明快だった。澪はうなずいた。見えるものがあれば、動ける。だが代償がある。短期的な記憶欠落、恐怖の共鳴。それでも彼女は手を伸ばした。今度は病室の毛布の匂い、消毒液の尖った香り、麻酔の残滓が鼻を刺す。ルカは目を細め、体がこわばっている。澪はそっと掌を当てる。犬の側面が震え、古い記憶のように映像が押し寄せる。

今回の残像は長かった。犬の興奮度が高く、残像は強いが断片的でノイズが混じる。暗がりの中、仮面のような人影が笑っている気配、機械の小さな振動音、そして低い指示の声。声は一節を繰り返した。「確保、K-eight、K-17──コードは上に伝えろ」それは企業内で使われる作業指示のような固い語感を持っていた。澪はその語尾を聞いた瞬間、視界の端に記憶のコードがひっかかるのを感じた。