山岳救助犬の訓練士 第17話「第15章」
車のヘッドライトが雪面に低く撒かれ、風音は鋭く尾根を割るように走った。白梟の車列は互いの距離を慎重に保ちながら、山の稜線を目指して登っていく。携帯の画面に転がってきた座標が、澪の胸の中でひとつの点に凝縮される。あの夢に幾度も現れた曲線の先に、今、振動と熱の増幅が検知された──それが事実になった瞬間だ。
車のヘッドライトが雪面に低く撒かれ、風音は鋭く尾根を割るように走った。白梟の車列は互いの距離を慎重に保ちながら、山の稜線を目指して登っていく。携帯の画面に転がってきた座標が、澪の胸の中でひとつの点に凝縮される。あの夢に幾度も現れた曲線の先に、今、振動と熱の増幅が検知された──それが事実になった瞬間だ。
「上りは急だ。風が入るとホワイトアウトも一気に来る」田島が運転席の窓を半分だけ開け、外の気配を確かめながら告げる。彼の声は低く、現場で鍛えられた抑制が乗っていた。
小野寺が後方で端末を凝視していた。「現場近傍に埋め込み式のセンサー群があるってデータが出てる。ここと一致してる。電源の微動も読める。短時間でも行動している痕跡がある」
赤羽は助手席でルカの首輪を撫でていた。獣医バッグから出した包帯をぎゅっと握りしめる手がわずかに震える。ルカの呼吸は浅く、尾をすらすらとは動かさない。前夜の封鎖作業で彼らは十分な回復時間を取れていないのだ。
澪は深く息を吸い、掌の内側にある熱を確かめた。視残共有のとき、彼女はいつも掌を犬の肩甲部に軽く当てる。物理的接触が条件だ。向こうが対象に五秒以上心的接触をしていなければ、残像は来ない。倫理規程では、未成年や意識のない者の残像を無断で読み続けることが禁じられている。だが今は、目の前で誰かが死ぬかもしれない。規程と現場の間で、澪の指は震える。
到着した観測点は、想像よりも高く、風は針のように肌を刺した。老松の群れはそこかしこに白い雪をかぶり、根元は乱された土で黒く見えた。掘削跡が広がり、木の皮が剥かれたように散らばっている。小さな金属片が風に瞬き、澪の記憶の尾根を掠めた。
「こっちだ」田島が叫ぶ。遠くから、金属がこすれるような音。斜面の上方で小さな崩落が起き、雪と岩が一瞬、白い煙を上げる。誰かの呼吸の切迫した音が、近くの窪みから聞こえた。
犬が先に動いた。ルカではない、ミカ──別働の若い雌犬が、雪をかき分けて匂いを追い、崩落のエッジまで軽やかに入っていく。彼女の鼻先が、雪の下から出た手首に触れた。犬がそのまま身体を押し当て、五秒を超えてその場に座り込む。澪は足を踏み込んだ。
「いける」小野寺の声。澪は膝を折ってミカの肩甲部に手を置く。掌の中に伝わる毛の温かさ、筋肉の僅かな震え。視残共有を発動するためのひとつの儀式——接触と犬の心的接触が満たされた。彼女は目を閉じ、映像の波を待った。
視界が歪む。モノクロームの断片が、耳鳴りのように入ってくる。せり出すような雪面、細い赤いコードのような鎖、そして低く繰り返される「三・二・一」の声。匂いがある。熱した金属と古い油、焦げた木の匂いが、澪の鼻を刺した。断片は短く、繋がらないが、彼女の頭はそれを補おうと必死になる。
「座標がある」澪はかすれた声で言う。呼吸が浅く、言葉は他人事のようだが、聞く者には意味が通った。小野寺が端末に手を伸ばし、断片音声をスペクトル解析する。波形の中に、先日封じたログと同種のパターンが顔を出す。暗号化された合図。それが誘発装置のトリガーである可能性は高い。
だが視残の代償はすぐに来る。吐き気が腹を駆け抜け、視界の端にノイズの縞が走る。澪の表情が曇り、指先が犬の毛を掴む力が不安定になる。赤羽が反射的に駆け寄り、腕を強く掴む。
「澪、やめて。今は短時間で切るの!」赤羽の声は叫びに近く、獣医として犬の疲労をすぐに見抜いていた。ミカの眼が遠くを見ている。尾の振りはさらに鈍くなり、呼吸に浅い弾みが入ってきた。
澪は息をこらえ、視残を断ち切ろうとする。だが途中で断片が新たな情景を結び、彼女は手を引けない。雪面の割れ目に、黒い箱のようなものが埋まっている。箱の蓋が半ば外れ、内部に紙片が見えた。設計図のようなものだ。線が細かく書かれ、回路図の一部らしい。小さな刻印──シリアル。しかも、そのシリアルは以前、訓練犬の古い首輪で見た刻印と形式が一致する。澪の中の何かがざわつく。
「これだ」田島が指差す。彼はロープを巻き、斜面の確保に入る。ここで彼の技術が生きる。風に煽られながら、彼は身体を低く保ち、崩れやすい雪面を見極めて仲間を降ろす。小野寺は手早く写真を撮り、設計図片をビニール袋に封入した。冷たさが手を刺すが、写真のシャッター音はどこか確信めいていた。
その時、背後で低い声と金属のぶつかる音がした。企業側の工作員が現場に到着し、白梟の動きを察知して干渉に入ってきたのだ。数名の男が防寒具の下に機材を背負い、こちらの写真を遮ろうと前に出る。言葉は荒く、手がすぐに袋を奪おうと伸びた。
「触るな!」田島が咄嗟に間に入る。ロープを握る彼の腕は鋼のように固く、男の手を払うと同時に体ごと押し返した。押し合いが生じる。雪が舞い、端末がひとつ地面に落ちてバウンドした。澪はその隙を見て、残された断片をしっかりと握りしめる。
小野寺は冷静に、だが素早く行動する。「ミカをここから離す! 赤羽、ルカも!」彼は端末で即座に周囲の電波をスキャンし、敵の通信を妨害するための簡易ジャミングを起動した。妨害装置の起動は一瞬だったが、工作員の指示系統を混乱させるには十分だった。男たちが慌てて後退する。
だが戦いは物理的だけではない。視野の隅で、澪の内側にもう一つの動きがあった。視残を長時間続けたことで、彼女の感情の層が薄くなっていく。通常の澪ならば、怒りや恐怖が瞬時に表情を濾過するが、その日は違った。言葉の抑揚が消え、一連の行動が計算的になる。震えるはずの声が、冷たく平坦に響いた。
「この装置、複数で同期させられている。シリアルと刻印の組合せでロットが分かるだろう」澪は無表情に言い、設計図断片を田島に渡す。田島は一瞬驚いたように見えたが、すぐに収めて作業に戻る。
赤羽が割り込んできた。「澪、それは違う。君、声が——」彼女は躊躇した。澪の目の奥に見えたものは、彼女自身がもう一人の他者を介して見ているような、薄い膜のような距離感だった。
「分かってる、赤羽。だけど今は時間がない。ここを止めないと、あの上で一気に増幅する」澪は短く答える。言葉の端に、かつて母が唄っていた曲の一節がうっすら紛れていたようにも聞こえる。だがそれは誰も拾わない。目の前の作業が優先された。
工作員たちが撤退すると、小野寺は端末のデータを即座にクラウドへ上げた。設計図の断片は断続的に解析され、線の引き方、回路の記号、そして「承認者」のように見える小さな文字が浮かんだ。そこには企業名は直接的には書かれていなかったが、刻印の形式とロット番号が先の首輪と一致することを示す相関が端末の画面に踊った。
「これで証拠の重なりが出来る」小野寺は吐息交じりに言った。「刻印と設計、位置。法的に結びつけられる形に出来る」
だが証拠を得た喜びは短い。上方から鈍い振動が伝わった。雪面が小さく唸り、木々がきしむ。設置してある別の装置が暴走を始めた可能性──それは封鎖の時間を稼いだという安堵を一瞬で吹き飛ばす。
「ここから先はもっと危ない」田島が言う。彼はロープを素早くたぐり、斜面の安定点を再確認する。作業員の一人が雪に滑りかけ、田島は即座に身体を伸ばして腕を掴んだ。ロー