雨都の記録者 第20話「第18章」
鐘の低い余韻がまだ路地の湿気に溶け残っている。雨は一段と激しくなり、石畳を叩く音が鼓膜を震わせた。薄闇の中、蓮司は潮音院の門前で息を整えながら、掌に巻かれた写しの束を確かめた。紙は重くはないが、責務の重さが骨に染みていた。夜の風に混じるのは、遠くで叫ぶ人々の声、斑の低い指示、そして碧夜の歌の断片だけだ。歌はあの日の合図でもあり、彼らの希望でもある。だが今夜は、鐘がもう一つの声にも届いてしまった。
鐘の低い余韻がまだ路地の湿気に溶け残っている。雨は一段と激しくなり、石畳を叩く音が鼓膜を震わせた。薄闇の中、蓮司は潮音院の門前で息を整えながら、掌に巻かれた写しの束を確かめた。紙は重くはないが、責務の重さが骨に染みていた。夜の風に混じるのは、遠くで叫ぶ人々の声、斑の低い指示、そして碧夜の歌の断片だけだ。歌はあの日の合図でもあり、彼らの希望でもある。だが今夜は、鐘がもう一つの声にも届いてしまった。
「二時だ」斑が吐き捨てるように言った。彼の声は低く、指先は震えていたが、視線は確かだった。「橋を死守しろ。小舟は東門につけてある。人の壁は崩すな。誰も紙を抱えて逃がすんだ」
計画は周到だった。何千もの写しが既に河を下り、露店の女たちの背負い袋に隠され、印刷所で小分けにされている。鐘が濡簿(ぬれぼ)班の合図となって動くという情報は逆手に取られ、碧夜の歌と同時に人波を誘導することで、侵入経路を塞ぐ算段ができていた。だが「算段」と「現実」は別ものだ。冷たい空気の中、前兆は既にあった。橋の向こうで焚き火の匂い、刃物が擦れる金属音、濡れた革の匂い――それは濡簿班の影だった。
襲撃は、合図と同時に始まった。鐘の一打で広場の人々が散開する。碧夜の声が高まり、歌の節が鐘の余韻に溶け込む。だが鐘は二度、三度と鳴り、そのたびに黒衣の一団が影のように群れを成して動いた。焚き火の光に浮かぶ顔は仮面のように歪み、濡簿班は倉庫の扉を破り、ロープを垂らして壁を乗り越えようとした。
斑が先に動いた。彼は濡れた石畳を蹴って駆け、鉤縄で屋根から飛び降り、二人の襲撃者を投げ飛ばした。拳と刃が交差し、雨は血を淡く溶かした。周囲では市民が叫び、子どもが泣き、写しを抱えた手が滑った。蓮司はそのすべてを視界の中に押し込み、冷たく光る一行分――ではなく、どうにか写しが人の手から離れぬよう人々を導いた。
「こっちを!」翠が叫んだ。彼女は法定腕章を振り、まだ署の正当性を示す証言の列を守るべく人々を導く。だが護りの糸は一本ずつ切られていく。濡簿班の動きは正確だった。彼らは狙いを絞っていた。書庫、印刻室、そして――創都の帳が保管されているはずの隠し区画。
蓮司は入口近くで立ち尽くした。倉庫の中では、濡簿班の一隊が巻物の箱を引きずり出している。箱の蓋が開き、濡れた大巻が露わになった。藍色の染みが、灯火にゆらゆらと浮かんでいる。像のように美しく、しかし嘘を隠す色だ。蓮司の胸を冷たい何かが締め付ける。そこに手をのばせば、潮写(しおうつし)が働く状態だ。湿度は臨界を越え、紙はまだ濡れている。だが彼は動かなかった。
潮写は条件を満たしていた。冬季にも増す湿気、雨季の空気、濡れた紙。触れた瞬間に文字は蘇るだろう。しかしその代償は、彼がこれまで払ってきたものの総和以上に重かった。一本の行を取り戻すたび、彼からは人の顔、夜の匂い、子どもの名が、あるいは自身の幼い日の遊び場の跡が一つ消えた。代償は累積し、脳裡の風景は徐々に砂のようにこぼれていく。前世の記憶も、その痛みも、既に彼の内側を削っていた。今潮写を使えば、確実にさらに何かを失う。碧夜のことは──もはや何を失うかすら、彼は名付けられない。
「やめろ、蓮司!」翠の声が耳に刺さった。「これ以上、あなたの記憶を消させちゃダメよ!」
だが濡簿班は躊躇わない。彼らは箱の中から数巻を奪い、炎の近くで強引に広げていく。紙は濡れているからすぐには燃えない。濡れた紙に火を当てると、外側だけが黒く変わり、内側の文字は膨潤して潰れる。濡簿班は乾燥装置を持っている。石油の灯を使って温め、文字の劣化を素早く進める術を知っていた。箱の一つが蓄熱装置のように扱われ、官製の蒸気機が羽音を立てる。濡簿班の手は早い。彼らは狙った巻のうち一つを乱暴に抱えて外へ逃げ出した。
斑は追った。彼は濡れた靴底で滑りながらも、渡り板を飛び越えて、狭い水路の桟橋まで疾走した。だが逃げる濡簿班は船を用意していた。黒い小舟が水面を裂き、奪われた巻を抱えて沈むように進む。斑は桟橋で刃を振り、数人を斬り倒したが、相手の一人が背後から投げた小さな火器で斑の腹に深い切り傷を負わせる。斑は血を吐いてよろめいた。彼の黒いシャツが赤く染まる。だが彼は笑ったように短く息を洩らした。
「奴らに渡すな。俺が全部殴られてでも止める」その笑いは苦く、決意の残響だった。
濡簿班は小舟に乗り込み、岸辺の反撃をかわしながら逃走した。河面に光る藍の布片がはためき、風に乗って彼らの形跡を残す。蓮司はその藍染みを見て理解した。濡簿班は帳の価値を熟知している。彼らは単なる破壊者ではない。帳の一部を「回収」し、どこかへ運ぶつもりだ。藍は目印だ。帳が正統と認められていた証の色が、裏の正義のために利用されている。
碧夜は、どこにいたのか。彼女の歌声が突然途切れた瞬間、蓮司は背中に冷たい予感を感じた。広場の混乱の中、誰かが小さなものを地面に落とした。それは細長い物体で、表面に小さな溝が刻まれていた。若い検録士が拾い上げて叫んだ。「録音だ。戻すと……歌が、録れている」
誰もが耳を寄せる。濡れた布でそっと拭われたその帯は、古い再生機用の記録帯の一部だった。表面は擦り切れており、縁は焦げていた。誰がどうやってそこに録音機を持ち込んだのかはわからない。だが、碧夜の声が、微かに残っていた。縺れた歌詞の一節が繰り返される。
「──あの祠の前、流れ子の水門で……」声は断片的で、何度も途切れる。録音は巻き戻され、ところどころに裂け目がある。だがそこに戻ってくるものは確かな手掛かりだった。流れ子の水門。西の門下にある古い祠。碧夜が最後に歌っていた場所。声は怯えと決意が混ざっていた。誰かが彼女を連れ去ったのか、彼女は囮になったのか。どちらにしても、その声は行き先を示していた。
翠は倒れていた。斑が彼女を抱えて走り込み、臨時の診療スペースへ運び込んだ。布が剥かれ、深い切り傷が見えた。矢か刃か、はっきりしない。彼女は顔を歪め、手を握り締めた。「まだ……」と、小さな声で言った。誰もが息を呑んだ。脈は荒く、血の匂いが室内に充満している。碧夜の不在と翠の負傷は、彼らに残された戦力を一気に削いでいった。
蓮司の視界の端で、手元の写しが一枚、濡れた石に落ちた。文字は水に濡れ、ぼやけている。触れれば潮写が働くだろう。彼の指が一瞬伸びかけた。だがその一瞬で、彼は自分が何を失うかを思い知った。斑の血の匂い、翠の小さな手、誰かの笑い声──彼の記憶は、既に砂礫のように欠けている。潮写を振るって帳の一行を取り戻せば、確実に何かが消える。蓮司はその選択を放棄した。彼はもう、誰かを裏切る覚悟はなかった。
「駄目だ。使わない」彼の声は小さかったが、意志は鋭かった。「今は、写しを散らす。写しが人の手に残れば、帳の一つを奪われても、真実は消えない」
作戦は即座に切り替えられた。蓮司の指示は簡潔だった。写しの束は三方に分けられ、船頭たちに預けられ、露店の袋には偽の藍印が仕込まれた。碧夜の歌の録音は復元部隊に渡され、録音に残された地名を鍵に、西の水門へ向かう追跡隊が編成された。斑は血まみれのまま桟橋に向かい、負傷した足で船を飛び越えよ