獅子旗の人質

獅子旗の人質 第25話「第23章」

港町の朝はいつもより静かだった。海面を滑る朝霧が、村の家並みを淡く溶かしている。朔夜は丘の縁に腰掛け、昨夜の帆影を思い返していた。染め糸の匂い、会合で交わされた誓いの文言、塔士の明るい声──それらはおのおのに温度を持って彼の胸に触れている。一方で、触れるたびに何かが薄れていく感触も、常に隣にある。笛の欠片を指先で弄りながら、彼は小さく息を吐いた。

港町の朝はいつもより静かだった。海面を滑る朝霧が、村の家並みを淡く溶かしている。朔夜は丘の縁に腰掛け、昨夜の帆影を思い返していた。染め糸の匂い、会合で交わされた誓いの文言、塔士の明るい声──それらはおのおのに温度を持って彼の胸に触れている。一方で、触れるたびに何かが薄れていく感触も、常に隣にある。笛の欠片を指先で弄りながら、彼は小さく息を吐いた。

「何を考えてるんだ、坊主」

百瀬が無造作に肩を叩く。刃物の手入れを終えたばかりの傭兵の掌はまだ油の匂いが残っていた。百瀬の眼窩に浮かぶ皺が、たるんだ村の空気に一瞬の緊張を落とす。

「遠くで、白櫂の評議が持ち上がってるらしいって話だ。明里の報告が来てな」

朔夜は眉を顰める。明里からの手紙はこれまでも慎重な文面だった。彼女は官吏としての立場と、仲間としての信頼の間で常に均衡をとってきた。村に来る前に交わした約束──朔夜の顔と過去を暴いて旗の前に晒すような真似はさせない、という約束の延長線上で、彼女は今どう動いているのだろう。

「評議というのは、いい意味でも悪い意味でも大きい。白櫂の中枢で『行方不明の王子』を巡る噂が回ってるらしい。王族の一角が彼を公的に呼び戻せと言っている、と」

百瀬の声は軽いが、その眼差しは真剣だった。朔夜は手元の笛をぎゅっと握りしめた。笛の欠片は冷たく、彼の掌の中で小さく震えた。あの小さな器物が、誰かの記憶を繋ぐ鍵になるのなら──それは同時に、彼を再び過去へ引き戻す縄でもある。

「呼び戻されるのは嫌だ」

朔夜は淡々と言った。言葉に含まれるのは恐れではない。自分が記憶を失い、名前を忘れつつある事実を受け入れた上での静かな決意だった。ここにいることが人々の生活を守ると信じたからこそ、戻ることを選ばない。彼は自らの身分を証明するための旗や儀礼に組み込まれるつもりはなかった。

「それが本心か?」

「はい」

答えは短く、揺るがなかった。百瀬はため息をつき、肩越しに港を眺める。波の上にはすでにいくつかの帆影が動きはじめていた。どれも――白櫂側のものではないかもしれないが――遠方の都市からの使者が近づいていることは確かだった。

午前中、工房に役人の小さな一団がやって来た。彼らは明里と名刺を交わしたあと、村長と凪子、塔士に向けて礼を述べ、正式な書簡を差し出す。朔夜はその様子を遠巻きに見ていたが、書簡の封に押された紋が、胸の内に冷たい気配を落とした。白櫂の都市からの代表団――評議の使者が、この村の新しい旗の採用について調査に来るというのだ。

凪子が書簡を受け取り、表情を引き締める。「公式の訪問ということは、良くも悪くも公的な注目を集めます。私たちが誓約を守ると宣言すれば、逆に誰かがそれを利用しようとするかもしれない」

塔士は指先を弄びながら、低い声で付け加えた。「古い旗の縫い目のこと――あそこに手が入った痕跡が、再調査されると分かれば、白櫂の議論は加速します。賛成派も反対派も、何かを掴みたい。そのとき、朔夜さんのことが槍玉に上がる可能性は高い」

村全体の空気が一瞬で固まった。子どもたちが遊ぶ声、海鳴り、織機の微かな軋み――それらが背景音になって、具体的な不安が前面に浮かぶ。朔夜は胸の中にある「触れてはいけない」という掟を思った。旗に触れることで自分が何を失い、何を守れるのか。代価を秤にかけるのは、誰にとってもつらい。

その夜、明里は朔夜を呼び出した。彼女の姿は昼とは違い、窓の光に輪郭が際立っている。官としての冷静さの奥に、隠し切れない緊張が見えた。

「評議は来る。白櫂の一部があなたを象徴として利用しようとしている。一方で、あなたを名誉回復させることで自分たちの非を覆い隠そうとする者もいる。どちらもあなたにとっては危険です」

「どうすればいいと?」

朔夜は簡潔に訊ねた。明里は少し笑ってから、答えを選んだ。

「私は、朔夜さんの意思を尊重したい。公的に呼び戻すことは、あなたが望まない限り私は支持しない。ただし、これを完全に放っておくわけにもいかない。公の場で話が出れば、あなたの身と村の安寧が脅かされる。私の役目は、あなたが自ら選べる余地を作ること。だから私は、評議と話をして『村の旗規範の試験運用』という形に誘導してもらった。名目上は旗の採用を審査する、ということで評議を満足させる。実際のところ、あなた個人の所在に踏み込ませないようにするつもりよ」

朔夜は明里の言葉を噛みしめた。政治的な手回しと人としての配慮が折り合っている。明里の眼差しには疲労と覚悟が混じっていた。彼女は公を動かす者としての重さを噛み締めているのだろう。

「だが、それでも注意は必要だ。白櫂には、あなたの笛の断片に関する噂が流れている。王宮には同じような欠片が保存されているという話だ。もし彼らがそれを『証拠』としてここに突きつけたら、私はそれを無視できない。真実を偽ることはできないが、あなたを守る術はある。あなたが希望するなら、私はそのために立ち回る」

朔夜は胸の中で何かが震えるのを感じた。笛の欠片。その欠片は幼い日の景色をかすかに呼び戻す音の断片であり、彼が王族であったことの唯一の物理的繋がりでもある。それが証拠になり得るという事実は、同時に彼をさらす刃にもなりうる。

「私は、ここにいたい。名前があろうとなかろうと、子らのためにいたい」

朔夜の声は強かったが、そこには以前のような確固たる自我の輪郭は薄れていた。明里は少しだけ黙り、そして頷いた。

「わかった。私が出来る限りのことをする。ただし、もし白櫂側が何か手を打ってくるなら──あなたが自ら出ることを望まない限り、こちらで盾になる」

朔夜は彼女の言葉に小さな感謝を感じた。彼にとって、明里の存在は常に擦り傷を覆う絆創膏のようなものだった。名誉でも権力でもない、ただ守り合うための役割の交換。彼はそのやり方を好ましく思った。

数日後、港に遠方からの使者を乗せた船が近づいた。見回りの子どもが旗を見て叫ぶ。帆に掲げられた紋が、朔夜の目に刺さる。細い縫い目の列が、どこかで見覚えのある調子を刻んでいるのだ。触れれば幻視が来る。触れれば代償が払われる。朔夜は一歩下がった。

使者は白櫂の評議からの代表だと名乗った。礼を尽くしながらも、その口調に含まれるのは政治的好奇心と、わずかな威圧だった。彼らは村の旗を見に来たのではない。来意はもっとあからさまだった。「朔夜の身柄について、確認したい」と。

村の人々はどよめいた。塔士は顔を強張らせ、凪子は低く唇を噛んだ。百瀬は無言で剣の柄に手をかける。明里は代表の言葉尻をとらえ、巧みに議題を逸らすように振舞った。評議は旗の採用審査を口実にして、朔夜の身分証明を求めた。しかし、村の結束は固く、その場では回答を保留にする一幕劇で切り抜けることができた。

代表団が去った後、朔夜は丘の上で立ち尽くした。港の方角に残る帆影が、傍らの笛の欠片に重なる。彼の胸には静かな覚悟があった。名前を取り戻すために過去を追うことはできる。だがここで生きる人々を守るために、忘却を受け入れることもできる。選択の重さは彼の身体を押し潰したが、同時にその中に一つの明快さも生まれていた。