獅子旗の人質

獅子旗の人質 第23話「第21章」

朝の光は、まだ眠りの続く村の屋根を薄く撫でていた。織機から立ち上る糸屑の匂いと、濡れた藁の乾く匂いが混ざり合い、凪子の小さな工房はいつもより少し賑やかだった。塔士は指先を真っ黒にして新しい紋様の試作を織り、子どもたちはその周りで小さな旗をつくるための端切れを持ち合っていた。朔夜は工房の片隅に座り、ただそれを見ていた。手元にはいつものように笛の欠片がある。触れるときは慎重に、吹くときはもっと慎重に——彼のしてきた約束は、そのまま日常の呼吸になっている。

朝の光は、まだ眠りの続く村の屋根を薄く撫でていた。織機から立ち上る糸屑の匂いと、濡れた藁の乾く匂いが混ざり合い、凪子の小さな工房はいつもより少し賑やかだった。塔士は指先を真っ黒にして新しい紋様の試作を織り、子どもたちはその周りで小さな旗をつくるための端切れを持ち合っていた。朔夜は工房の片隅に座り、ただそれを見ていた。手元にはいつものように笛の欠片がある。触れるときは慎重に、吹くときはもっと慎重に——彼のしてきた約束は、そのまま日常の呼吸になっている。

「見てみろよ、塔士。ここの色、赤じゃなくても、強さが出るんだよ」凪子は糸を扱いながら、笑ったように言った。彼女の手は確かで、裂け目をどう扱えば人の心に寄り添えるかを知っている。塔士は照れくさそうに目を細め、織機の向こうで小さな旗に最後の房を縛った。

「だって赤は、もう戦の色じゃないんだ」塔士の声には誇りが混じっていた。「村のための旗なんだ。子どもたちが学校へ行くとき、あの小旗を持っていけば安心になる。遠くの人にも『ここには帰る場所がある』って伝わるように」

子どもが近寄ってきて、小さな手に握った紙片を差し出した。そこにはやや乱暴な糸通しで作った、小さな私旗が描かれている。声はかすれていたが、真剣だった。

「ねえ、あの人は名前あるの?」子どもは朔夜を指差した。眼差しは純粋で、尋ねられたのはかつて王宮で育った者でありながら、自ら名を忘れてしまった男だった。

朔夜はしばらく考え、首を振った。名がなければ何かが欠けるのか——そんな問いはもう何度も自分に投げかけられた。だが今の答えは明瞭だった。

「僕は……名前はないよ」彼は淡く笑ってみせる。「でも、ここにいる。だから——それでいい」

子どもはそれで満足したのか、にっと笑って旗を振った。塔士がそっと近づき、朔夜の肩に手を乗せる。小さな接触は慰めにも、励ましにもなる。凪子は目を細めて二人を見やり、また織機の音に戻った。

午後になると、明里が村にやって来た。彼女は旅の埃を落としてから広場の会議小屋へと向かい、調査委員会の進行状況を報告した。表情は引き締まっている。公文書と人の口から漏れる噂の両方を、彼女は慎重に扱っている。

「法的には、動きが出ています」明里は周囲を見回し、朔夜の方へ視線を送った。「けれど、抵抗も根深い。利権側はまだ手を緩めていない。白櫂でも、あなたの行方に関する噂が出ているらしい。『王子が行方不明』という話を、誰かが都で蒸し返しているようだ」

朔夜は言葉を探した。胸のどこかで何かが疼く。故国の耳目がここへ及ぶということは、穏やかな生活が続かない可能性を意味していた。だが同時に、彼はこの村での自分の役割を拒む気にはなれなかった。

「僕には、ここがある」朔夜はゆっくりと言った。「名前がどうであれ、ここにいる人を守るのが、今の僕の仕事だ」

明里はうなずいた。「その選択を、私は尊重する。だが政治は変わる。君が望むなら帰還の手配もできる。君の意思があれば——」彼女の言葉はそこで一瞬途切れた。朔夜が返したのは笑顔でも、決意でもない、単純な静けさだった。

「今はいい。それに、戻ることが意味を持つかどうかは分からない」彼はそうだけ言い、身を少し引いた。

日が傾くと、百瀬が見張り台から下りてきた。彼はいつもの革の外套を羽織り、腕を組んで海を見つめる。百瀬の背中には戦場で磨かれた見張り方が残っている。だがその視線は、今は農作と物資運搬の管理へと変わっていた。

「今日は港に怪しい影はなかったか?」塔士が尋ねると、百瀬は一度だけ肩をすくめてから子どもたちの方を見た。

「帆影は近づいている」彼は低く言った。「だが、今のところ慌てる必要はない。船は一隻、緩やかにこちらへ向かっている。旗は小さい。檣に何かが付いているように見えたが、風で揺れて確認できない」

その言葉に一瞬、工房の空気が変わる。帆影──それは村にとって過去の入り口であり、未来の予兆でもある。朔夜の手元にある笛の欠片が、いつもより少しだけ冷たく触れた。笛は彼にとって過去の扉であり、開けるたびに何かを閉じてしまうものだ。だから彼はできるだけそれを使わないように心がけている。だが、夜の静寂に紛れて吹いたら、子どもたちが集まるかもしれない——その想像に、胸のどこかが柔らかくなるのも確かだった。

「帆影か」凪子の声が低くなる。「来るなら来い。私たちはここを守る」

守る、と言う言葉は朔夜にとってもう一度、自分を定義する合図になっていた。王族としての名誉や地位はすでに彼の間から抜け落ちてしまったが、守るべき人々の顔は日々増えている。村の子どもたちの笑い声、塔士の震えるような誇り、明里の疲れた目。それらはすべて、彼が忘れてはいけない理由だ。

日が落ちて、村の灯りが一つずつ点る時間になると、小さな舞台が再び整う。今日は授業が終わった後、子どもたちの前で朔夜が笛を一曲吹くことになっていた。彼は笛を唇に寄せ、息を入れる。音は薄く、微かな金属の擦れる響きだ。それでも夜の空気にはよく通る。

だが笛が鳴ると、いつものことながら胸の奥で何かが揺れる。色濃い記憶が一瞬立ち上がり、それと同時に別の記憶がふっと消えていく。幼い誰かの笑い声、祖父の手の温度、寝室の柱の斑──一つ開ければ、幾つかが閉まる。代償は容赦ない。朔夜はそれを知り尽くしているが、時折それでも音を選んだ。子どもたちの目が潤むと、彼は自分が誰であるかよりも、その一瞬を重んじたくなるのだ。

笛が終わると、子どもは近寄ってきて赤い帯を小さく差し出した。ぼろぼろになったその帯は、今やこの村で誇りの印である。朔夜はそれを受け取り、そっと首にかける。人々は彼を王子としては見ない。だが彼がその帯を受けたとき、誰もが彼を仲間の一人として感じた。

「ありがとう」子どもは小さく言った。「あんたがここにいてくれるから、安心するんだ」

朔夜は答えを返せなかった。名前がないという事実は、逆説的に彼を自由にしていた。誰かにとっての「朔夜」である必要はあるが、その呼び名に縛られるわけではない。彼はただここにいる。「守る人」であることは、名乗ることよりも強い。

だが海の方角からは、帆影が夜の幕に黒い疵として滲んでいた。小さな船ではない。檣に垂れたものが、微かに旗の形を成している。誰が来るのか。白櫂の役人か、あるいは噂を追う者か。それとも、彼の過去を再確認しに来る者か──その問いが、朔夜の胸を針で刺すように突いた。

「帆の上に、何か付いているのか?」塔士が問う。彼の手はまだ器用に動くが、目には不安が宿っている。

「そう見える」百瀬は短く答えた。「しかし遠い、接近すればわかる。だが俺たちは準備しておく。誰が来ても、まずは聞く。暴力で奪う者は許さない」

朔夜は海に向かって立ち上がった。風が顔を撫で、塩の匂いが鼻をくすぐる。遠くの灯がまた一つ、二つと揺れる。帆影はじわじわと近づいてきている。檣に垂れている布の輪郭が、次第にはっきりしてきた。小さな紋があるようにも見える——既視感のある縫い目の並び方。あの縫い目は、かつて見たことがある気がする。だが触れれば、どれだけのものを失うのか。あの感覚はまだ生々しい。