獅子旗の人質

獅子旗の人質 第11話「第10章」

月灯りが薄く差し込む倉の中は、糸の匂いに薬品の鋭さが混じっていた。古い織り機の枠に、見慣れない金属製の筒と細い管が取り付けられ、繊維がその先端で引き込まれては吐き出されている。布は滑らかに縫い合わされ、外から見れば完璧に修復された旗にしか見えない。ただ、端の縫い目に光る油膜があり、繊維に満ちる匂いが自然のそれとは違っていた。

月灯りが薄く差し込む倉の中は、糸の匂いに薬品の鋭さが混じっていた。古い織り機の枠に、見慣れない金属製の筒と細い管が取り付けられ、繊維がその先端で引き込まれては吐き出されている。布は滑らかに縫い合わされ、外から見れば完璧に修復された旗にしか見えない。ただ、端の縫い目に光る油膜があり、繊維に満ちる匂いが自然のそれとは違っていた。

「ここが……」凪子の呻きは小さかった。彼女の指先は、かつて師匠が教えた癖で布の縫い目をなぞっていた。塔士は目を吊り上げ、隠し箱から引き出した古文書の頁を握り締めている。明里は暗がりで二十分に一度、外部へ送る信号の確認をしていた。百瀬は銃把を床に立て、匂いに慎重な顔を向けている。流は赤い帯をぎゅっと握り、震えるがそれを顔に出さない。朔夜は一歩前へ出て、その場に置かれた一枚の旗に手を伸ばした——触れるために。

条件はいつもと同じだ。面に触れ、裂け目や縫い目を指で辿る。触れた瞬間、布の「傷」が風眼に映る。だが今回は、ふいに空気が厚く、視界が薬品の靄で曇るようだった。朔夜の掌が布の表面をなぞると、繊維の一筋一筋に、計算された「焦点」が埋め込まれているのが見えた。染み込んだ粒子が、織り込まれた紋様の交差点で反応し、特定の感情を増幅するための周期的な振動を放つ。視えてくるのは、兵の目を狙った設計図のようなものだった。恐れを刺激する微細なノイズ。恥と無力を強める縫い目。帰還の望みを断つような、寸断された家族の幻。

「――人工的だ」凪子の声に震えが混じる。「糸に薬が染みてる。繊維の内側に埋め込まれた――感情を誘導する媒体よ」

塔士が息を飲んだ。「そんなこと……旗が、人を操る道具にされているなんて」

朔夜は視た。布の中を流れる波形と、それに同期する光景。兵たちの怒りが人工的に高められ、同時に恐れが鋭角に切り詰められていく。視覚に重なるのは装置の設計図。繊維を通す金属の針、熱を加える円盤、染料に混入する微粒子の比率を示す数字の列。読むほどに、彼の胸の奥で淡い何かが削られていく感覚がした。触れれば代償はある。いつもより重い鈍い痛みが胸を突いた。

「やめて!」流の声が近づいた。彼の目が狂おしいほどに朔夜を見つめる。「お前、やめろよ。勝手に触るな!」

だが朔夜は止まらない。目の前にあるのは、旗の改竄を恒常化する「器具」そのものだ。装置の仕組みを知らねば、対策は立てられない。触れることは、朔夜が自ら課した誓い――他者を大量に殺すために風眼を使わない――の枠内であっても、戦術的に重要だった。読みは避難と回避、そして告発のために使われねばならない。今、ここで得る情報は、何百の少年の命を守るために必要だと朔夜は判断した。

視覚は装置の動きを細密に描き出した。繊維はまずグリースのような基質に浸され、次に静電気で微粒子が付着する。続いて蒸気の室で加熱され、粒子は繊維と化学的に結合する。最後に縫い目が特定の紋様で圧縮されることで、兵の視界に特定の感情を呼び起こす「トリガー」が仕込まれる。結論は冷たく明瞭だった――これは感情のインジェクション装置だ。

「証拠だ」明里が低く言った。彼女は懐から用意した封筒を差し出すようにして、スマイルネガを一枚抜き出した。「これを外に出せば、改竄の証拠として公示できる。裁判にも使える」

塔士は手を伸ばし、装置の一部に触れた。金属は冷たく、機械的な唸りが耳に刺さる。すると倉の奥から、滑るような足音がした。扉の向こう、あるはずの見張りがいて、静かに入り口を閉じる。闇技術者たちだ。彼らの顔は油と糸屑で汚れ、眼差しは掠れていて、確信に満ちた冷たさがあった。それが来ると凪子の顔がまるで針で刺されたように硬直した。

「あの男か……」凪子の声は震えつつも、怒りを含んでいた。「師匠の知り合いだ。ここに来て、彼の手が――」

扉が勢いよく開かれ、数人の監視者が押し入ってきた。待ち伏せだった。朔夜たちの侵入は見抜かれていたのだ。暗闇から現れたのは、かつて凪子が仰いだ旗師の一人、あるいはその周縁にいた者たちだ。だが彼らの手は織り機ではなく、薬瓶と鉄製の鋭器を握っていた。

「待て!我々は告発を――」明里が言いかける前に、ひとりの男が舌打ちをして声を張った。「お前らがどの国だろうと、金に関係のない真実などない。ここは商売場だ」

百瀬が前に飛び出した。彼の体は夜の影のように低く、鋭く動く。短い格闘が始まり、鉄と布の擦れる音が倉の中に木霊する。朔夜も本能的に手首を引き、塔士を抱え、流をかばった。だが闘いの最中、装置の一部が振動でずれ、機械の軋みが激しくなった。監視者の一人が機械のパネルを叩くと、蒸気が噴き、薬品の匂いが一層濃くなった。そのとき、朔夜は自分の中の何かが音を立てて崩れるのを感じた。

名前が消えた。確かな臨界の感覚。触れて読むたびに、朔夜の中から一つの記憶が剥がれ落ちるという法則はわかっている。だがその剥がれ方が違った。視覚の端に映っていた小さな光景がふっと薄れて、代わりに冷たい空白がぽっかり口を開く。朔夜が固有名詞を口にしようとした瞬間、音が消えた。幼馴染の名――彼がかつて、王宮の回廊で遊んだあの友の名が、指先から滑り落ちた。

「何があった?」塔士の声に朔夜は答えられなかった。胸の奥から出ようとしていた音が、言葉にならずに消えた。思い出せそうで思い出せない。笑い声の欠片は残り、その匂いだけが彼を引き止める。けれど名は、文字としての輪郭は消えた。朔夜はなぜかその名を呼ぶことができず、舌の先が虚空を這っていくのを感じた。

「朔夜!」流が叫ぶ。目の前が揺れ、朔夜は膝をついた。塔士がしっかりと彼の肩を掴み、百瀬が周囲を蹴散らして距離を作る。闘いは数分で終わらず、監視者が数を増やして押し上げてくる。凪子は師匠の姿を見つけ、声を詰まらせた。そこにいたのは、かつて彼女に糸目の結び方を教えた黒い手の男で、今は金に目をくらませて旗を売り渡していた。

「師匠、どうして……」凪子の言葉は刃のように鋭かった。「あなたが、こんなことを——」

師匠は目を閉じ、布の一端を撫でるようにして答えた。「技術は使う者次第だ、凪子。俺はもう、この島で生き延びるために糸を染めている。昔の美学で飯を食える時代は終わった」

塔士は震えながらその言葉を聞き、崩れ落ちそうになる。あの優しく厳しい師の手が、こんな風に変わっていたのか。裏切りの匂いが鮮烈だった。塔士の小さな拳が固くなる。彼はこの瞬間、職人の誇りとその堕落を同時に見た。

「この装置を壊せれば、外へ持ち出せる証拠が増える」明里が短く言った。彼女の指先は冷静で、すでに幾つかの作業が頭に入っている。だがその一方で、闇技術者たちが後退していこうとする様子が朔夜の耳に入る。誰かが合図を出したのだ。外の見張りが笛を吹き、夜の帳を切り裂く警報が上がった。

「逃がすな」監視者の一人が叫び、さらに数名が銃を抜いた。百瀬はそれを見て唇を固く引いた。「こいつら、追って来る。数が増えただけだ」

朔夜はゆっくりと、しかし確かな決意で立ち上がった。胸の中の空洞が冷たく、名の消失が鈍い痛みを残す。だが掌に残った布の感触——薬品と糸の冷たさが、朔夜に問いを投げかけた。こ