北壁の暦官

北壁の暦官 第9話「第8章」

雪の夜は音を削ぎ落とした。街灯代わりの小さな松明の炎が、風に掬われて唇を鳴らすだけだ。瑤は帽子の縁を深く下げ、手袋の指先で細い路地の影を指差した。「あそこ。昔の倉の裏。情報屋の拠点だ。余影党とも距離を置く連中だが、最近は連絡が付かないって話が出てた」

雪の夜は音を削ぎ落とした。街灯代わりの小さな松明の炎が、風に掬われて唇を鳴らすだけだ。瑤は帽子の縁を深く下げ、手袋の指先で細い路地の影を指差した。「あそこ。昔の倉の裏。情報屋の拠点だ。余影党とも距離を置く連中だが、最近は連絡が付かないって話が出てた」

琴音は頷きながら、自分の額にある薄い裂け目に手を当てた。冷たかった。書き込みのたびに広がるような感覚はまだ残っている。斎藤の言葉が胸に刺さる。「二度と朔日以外での無秩序な使用はするな」。彼の手は琴音の肩に乗ったまま、温かさを伝えていたがそれは命令の余韻でもあった。

倉の裏口には古い駒札がぶら下がり、そこに貼られた小さな紙片は、誰かがここを最後に通った日を呟いているようだった。瑤が静かに扉を叩く。返ってきたのは低い呻き声、鍵が開くと腐れた空気と乾いた煙草の匂いが混じった。中には痩せた男が座り、目だけがやけに光っていた。顔の片側に浅い傷跡が走っている。余影党の者、あるいはその周辺と繋がる者だと瑤は言っていたが、顔を合わせてもただの情報屋に見える。

「瑤の顔付きを褒めてやれ。奴は金を払ってでも黙る」と男は囁くように言った。言葉の端に含まれた軽い嘲りが、琴音の背筋を伸ばす。

「余影党の動きは?」斎藤が問う。声に厳しさが戻る。男は指で燭台の蝋を掻き落とし、灰の上に焼けた唇を押しつけるようにして答えた。

「暦の——余白を集めてる。小さな行事を、辺境の小祭や門開き、出航の日取りをこそっとずらす。人の流れを生むんだ。混乱が生まれたところに余白が露出する。追われる者が出れば、市場は株口を探す。要するに、運命の隙間を引き延ばすことで利を得る」

琴音はそれを聞きながら、手の中の小さな帳面を確かめた。欠けた頁の縁がここ数日、うっすらと滲むように黒ずんでいる。そこに刻まれていた一節の欠片――「橋を架ける者は、紙に歌を縫う」という言葉の断片と、男の最後に言った一語が一致してしまった。男が吐いたのは方言混じりの短い接続語で、琴音の帳面に滲んだ文字列と形が合致していたのだ。

その一致を見たとき、琴音の胸の奥を何かが瞬時に針で突いた。前世の断片がまた一つ、薄く消えた気がした。手の中の帳面の手触り、都市の町工房の棚の匂い、細い釘の冷たさ――そのどれかが、すぐにふっと薄れていく。代償は常に即座に来る。彼女は息を詰めて飲み込んだ。

「景刻院が裏で手を引いているとの噂がある。余影党に金を渡し、混乱を作らせ、それを口実に暦局を掌握する──そんな筋書きだ」男はまた鬱屈した笑いを吐いた。「直接的な証拠はないが、筋は通っている。中央は余白を怖がる。余白を手にすれば、歴史を書き換えられる。ええ、そういうことさ」

斎藤の瞳が鋭く光った。琴音はその表情を見て、胸が締めつけられる思いをした。彼は正義の尺度と秩序の維持を己の柱とする男だ。景刻院のことが本当なら、局は政治のはざまで引き裂かれる。琴音の能力は、政治的に狂った刃物にもなりうる。

「その余影党……本拠は?」瑤が声を落として問う。

男は肩をすくめ、しわくちゃの掌を広げる。「北側の廃れた鉱山の集落から始まった。地下道があって、古い道が縫い合わされている。暦を縫う女の伝承を食い物にしているらしい。若者を攫い、暦の余白を引き出しては売り飛ばす。取引先は色々だ。言っておくが、あんたたちは足を踏み入れたくない場所だ」

鳴海が前に出て、巻物を胸に抱えながら小声で言った。「層暦の断片だ。余白は複数の層で共鳴する。彼らは意図的にその共鳴を起こしている。もし層が同時に反応すれば、影響は局地的ではなくなる。気を付けろ」

琴音はそのとき、心の中にある熱い欲求を抑えるのが難しいのを感じた。余影党の計画を放置すれば、もっと多くの運命がねじ曲げられる。だが使うたびに記憶は失われ、朔日の規定も護らねばならない。だが──と彼女の内側でもう一つの声が囁いた──無策でただ見ていることこそ、罪ではないのか。

「今、動くことだ」瑤が言った。「夜は奴らの時間。奴らの動きを封じなければ、町や交易路が壊れる。琴音、君はここで待機して報告するか?」

斎藤は冷たく首を振った。「いや。瑤の言う通りだ。だが正面切っての衝突は愚かだ。情報を洗い、潜入する。少人数で行け。発見されれば撤退。景刻院の目は気にするな。今は目の前の脅威を排すことだ」

鳴海は地図を広げ、小さな墨で線を引いていく。彼の手は震えているようで、その震えは理性ではなく期待から来ている。琴音はその様子を見て、胸が痛んだ。彼が自分の能力を学知としてのみ取り扱う気配は、以前より強くなっている。知識への渇望が倫理を浸食するのを彼女は見たことがある。だが今は仲間だ。必要なときに彼を止めるのは自分だと、琴音は思った。

夜はさらに冷えた。鐘楼の不協和音は一段と大きくなり、遠くからも混濁した律が聞こえてくる。あの音が近づくと、胸の奥がざわざわする。街の人々はそれを寝床で聞き、夢の断片を喪う。琴音は自分の胸に手を当て、裂け目が熱を帯びるのを感じた。

倉の影から出ると、瑤が腕に小さな包みを抱えていた。「これ、リオの家族に。先に傷の手当てを頼む。後で話はするが、行動は速やかに」彼女は琴音の顔を見据えた。「琴音、あんたが行くなら、私も一緒だ。黙って見過ごすなんて、できない」

琴音は一瞬だけ斎藤を見た。彼は無言で首を軽く縦に振った。承認ではなく、許しのように見えた。琴音は呼吸を整え、掌の帳面をぎゅっと握った。欠けた頁の縁が冷たい。そこには、もし自分がもっと情報を掴んだなら、何を捧げねばならないかが書かれている気がした。

「だが一つ、約束してほしい」斎藤が低く言った。「朔日以外の使用は、最小限にしてくれ。今回のような緊急回避なら理解するが、あんたが書くたびに誰かの人生が替わる。俺はその度に、家族を慰める立場になるのはもう嫌だ」

琴音はまだ迷いがあった。だが瑤の怒り、男の語った言葉、欠けた頁の一致、それらが合わさって、答えは明白に近づいた。守ることは、時に変えることを伴う。だが変えることは、それが少数の犠牲を伴ってでも多数を救うのかを彼女は考えねばならない。

「分かった」琴音は言った。声は震えていたが、決意はあった。「最小限にする。だが必要なら、私は書く。局のためでも、北壁の人々のためでもなく、今目の前にいる人を守るために」

瑤が短く笑った。鳴海は一瞬だけ安堵を匂わせ、そしてすぐに顔を引き締めた。「ならば、計画を立てる。夜のうちに接触する。情報屋の言った鉱山の集落に向かう。盗賊の如き見張りは薄い。だが罠があるかもしれない。琴音、君は私たちの中で唯一、余白を扱える。だが忘れるな。書くたびに君が失うのは、過去だけではない。君自身の連続性も、かけらずつ消えていく」

琴音は軽く笑ったように見せて、しかし吐息の中で前世のある小節を失ったことを思い出した。町工房の釘の手触り、刃の匂い、誰かの名前――どれも遠い。変わりに母の笑いが戻った。彼女はその対照に自分を重ね、今は何を捨て、何を抱えて行くべきかを決めねばならない。

男は立ち上がり、煙草の火を消しながら言った。「気をつけろ。余影党は暦を『商品』として扱っている。売り先は色々