北壁の暦官

北壁の暦官 第3話「第2章」

琴音は翌朝、冷えた硝子窓に自分の吐息を曇らせながら記録帳を開いた。前夜に走らせた一行——「執行——祝祭、配給優先の日として」——は黒く乾いて、暦紙の余白で確かな塊になっていた。だが確かめるべきものは文字の黒さではなく、その先に起きた事柄だ。暦が動いたら、誰かの時間が端から端へとずれる。墨の痕と等価の重さが、現実のどこかで形を成す。

琴音は翌朝、冷えた硝子窓に自分の吐息を曇らせながら記録帳を開いた。前夜に走らせた一行——「執行——祝祭、配給優先の日として」——は黒く乾いて、暦紙の余白で確かな塊になっていた。だが確かめるべきものは文字の黒さではなく、その先に起きた事柄だ。暦が動いたら、誰かの時間が端から端へとずれる。墨の痕と等価の重さが、現実のどこかで形を成す。

琴音は筆を持ち、局の机の灯りの下で線を引くように書き記した。日時、行事名、実行者、配給対象の村名、そして自分の個人的所見——「配給優先により村の飢饉は回避。該当日の行政伝達は正常に届いたが、名簿改変により見習い一名の徴集が先送りとなる。結果としてその者は市域へ出たのち別件の不穏な接触あり。追跡を要する」——それを書き終えたとき、額の暦裂が薄く疼いた。掌で触れると、ひんやりとした感触が伝わる。いつの間にか、その裂け目は自分の一部であるかのように馴染んでいた。

「記録、だな」

斎藤が無骨な手で檀の上にある朱印箱を叩いた。彼はいつもと変わらない凛とした顔つきで座り、琴音の書く文字をゆっくりと読み上げた。「暦の改変は行政にも波及する。景刻院に見つかれば局全体が問われる、というのは言うまでもない。だがそれ以前に、我々は事実を把握しなければならない」

鳴海はすでに帳を受け取り、ページの隅を虫眼鏡で覗き込んだ。瞳の奥が好奇心で燃えている。「興味深い。君の一行は、単なる行政上の日付の変更にとどまらず——ネットワークの経済的流れを再配分した。配給の優先権は物資の流れを変え、そこで発生する人間の移動が別の社会的接触を生む。因果の追跡は可能だ」

「因果は追うべきだが、弄んではならん」斎藤は硬い声で鳴海を遮った。「人の運命は試験台でない。暦を扱う者は、記録と手続きを守る。だが、事実として追跡は必要だ。見習いの行方を追え。俺が名簿の改変箇所を調べる」

瑤は小さく笑って肩をすくめた。「まあ、アンタたちの議論はありがたいけど、現場は誰かの腹を満たすかどうかだからね。そっちの方が先だよ。どうせなら、この変化が広がる前に表向きに処理できるところから手をつけようぜ」

琴音は書を閉じ、鞄に差していた小さな地図を開いた。尋ねるべきは一つ、徴兵を逃れた若い見習い——高野徹(たかの とおる)という名が名簿から突然消えた。彼は先月まで砦の隊列にいた若者だ。琴音は昨夕、徴兵欄に朱印が欠けているのを見て、胸が凍った。自分の書いた一行がもたらした「欠落」が誰かの運命を巻き取っている。

「私が行きます」琴音の声は思ったよりも静かだった。「見張りや聞き込みは私の仕事だ。……書いた者として、自分の代償がどう回っているかを知るべきです」

斎藤は首を振った。「局に残れ。お前はまだ自分の代償の構造を知らない。朔日一度の原則——いや、それをお前が忘れているかもしれん。能う限り無用な介入は避けるべきだ」

「それでも、誰かが行く必要がある」瑤が割って入った。「私も行く。情報屋だ。こういうのは肌で嗅ぎ分ける。鳴海はここで資料整理と報告、邦は局を守れ」

鳴海は小さく唇を噛み、机に置かれた巻物に視線を落とした。「私も同行したい。現象の一つ一つを観察する必要がある。だが——琴音、いいか。これはただの人道支援の追跡ではない。君の行使の跡を辿れば、我々は暦そのものの特性を知ることができる。倫理的にどうこう以前に、知識として価値がある」

琴音は額に手を当てた。裂け目が熱を帯びる。二、三度、脳内に欠落が広がるような感覚が走る。昨日まで確かにあったはずの小さな記憶、前世の誰かが抱いていたであろう昔日の匂い——それが砂状に崩れて、掌から零れ落ちるようだ。書くたびに消えるということは、記憶のどれを差し出すかを自分で選べないということだ。選択の自由は、彼女にとってさらなる恐怖だった。

「行く」琴音は決めた。「でも、行くのは私と瑤で。鳴海は局で資料整理を。邦さん、資料庫の扉に手をかけるなら、私たちの動きが外部に知られないようにはしてください。——特に景刻院には」

斎藤は短く頷いた。「わかった。資料庫は慎重に扱う。だが、もし景刻院の嗅ぎつけがあれば、我々はこの場で正当な説明をせねばならん。局は住民を守るためにある。だが暦は国家の根幹でもある。忘れるな」

琴音たちは雪の残る道を下り、砦の外へと向かった。市場は朝の喧騒のただ中にあり、風にのって揚げ物の匂いや獣皮の匂い、湿った木の匂いが混ざる。遠目に見える人影の中、琴音は高野の顔を探した。だが彼はもう、日の出の群れの中にはいなかった。唯一の手がかりは、宿屋の主人が見たという「若者が昨夜、宿代を払わずに出ていった」という噂話だけだった。

「そっちの路地を見たか」瑤が言い、細い路地を指差した。匂いが濃い所には人間の弱さが集まる。琴音はそこへ足を運んだ。床に転がる小さな紙片、酒の匂い、足跡の新しさ。誰かの会話、子供たちの笑い声。彼らの生は、暦の一行で変わったばかりだ。

二つ目の手がかりは、商家の口述だった。高野は市街地の外れで、大柄な者たちに声をかけられていた。徴集の朱印が無かったために戸籍に記録が残らなかったという事実が、彼をかえって「便利な存在」にしてしまった。名簿に穴がある者は、物理的な監視の網からも外れる。悪辣な者たちはそんな若ものを手懐けるのに手がかからない——兵ではなく、徒党の一員に据えるには格好の素材だ。

「彼らは、若者を拾っているのか」琴音は呟いた。心臓が早鐘のように鳴る。ぼんやりとした不安が胸を波打った。書いたことで救われた村の命は確かにあった。だが誰かが他の方向に吸い寄せられ、そこで闇に触れる。救済の影はいつも裏返しを持っている。

路地の奥、薄暗い軒先に高野の姿を見つけたのは、宿屋の主の言葉から一時間ほど歩いたころだった。彼は肩に布を羽織り、凍てつく風に震えている。目の下に影があり、若さに似合わぬ硬さが立ち上っていた。彼の周囲には二人の男が寄り添っていた。片方は歯に金の色をした不潔な顔、もう一人は鋭い目つきで金銭入りの袋を舐め回すように見ていた。

琴音は足を止めた。何かが胸の奥で引き裂かれる。高野の瞳が琴音を捉えた。気づいてしまった瞬間、場の空気が緊迫する。瑤は後ろに隠れるように身を引き、だがいつでも飛び出せる構えだ。鳴海は局に残り、記録の流れを遠隔で送る術はない。ここで彼女が何をするかは、文字通り誰かの未来を左右する。

「兄ちゃん、お前、いい子だよ。うちで働かないか? 港の荷揚げ、朝飯付きだ」不潔な男が甘い声で囁いた。高野は口ごもる。頭の中で何かが天秤にかけられていた。徴兵という義務、それが消えたことで開いた隙間。そこに滑り込む言葉は、暖かさと恐ろしさの混ざった香りを放っていた。

琴音は唇を噛んだ。暦が彼に与えた余裕は、まるで罠を張るために用意されたかのようだった。救うために書いた行為が、別の救いを奪っている。彼女はしばらくその場に留まり、ただ観察することにした。能力の代償の一つは、介入の結果が必ずしも自分の意図どおりに作用しないという事実だ。今介入して別の破局を招くのか、見過ごして彼の選択を尊重するのか。どちらも倫理的に重かった。

高野の目が再び遠