北壁の暦官

北壁の暦官 第25話「第23章」

朝の風はまだ冷たかったが、町の通りには冬の終わりを告げる匂いが混ざっていた。焦げた糖蜜の香り、魚の湿った生臭さ、木炭をくべたばかりの煙が織りなす雑多な匂い。綾月琴音は瑠衣の小さな手を握り、ゆっくりと市場の道を歩いた。路地の石畳は夜露にぬれて滑りやすく、二人の影が灯りに長く伸びる。琴音は指先で瑠衣の掌を確かめるたびに、自分がここにいることを再確認していた。

朝の風はまだ冷たかったが、町の通りには冬の終わりを告げる匂いが混ざっていた。焦げた糖蜜の香り、魚の湿った生臭さ、木炭をくべたばかりの煙が織りなす雑多な匂い。綾月琴音は瑠衣の小さな手を握り、ゆっくりと市場の道を歩いた。路地の石畳は夜露にぬれて滑りやすく、二人の影が灯りに長く伸びる。琴音は指先で瑠衣の掌を確かめるたびに、自分がここにいることを再確認していた。

「ことね、おはよう。今日はおやつ買ってくれるの?」瑠衣の声はまだ寝ぼけていて、だが目はきらきらと希望に満ちている。

琴音は微笑んで頷いた。「いいわよ。焼き菓子屋に寄りましょう。あの店の蜂蜜バターが少し残ってるはず」

二人が店先に近づくと、雪村瑤が熟練の手つきで干し魚を選ぶ客に声をかけていた。瑤の顔は以前より険が抜け、腕には新たな筋肉がついている。商いが順調なのだろう。琴音が近づくと、瑤はぱっと笑いを返した。

「おはよう、ことね。瑠衣、いつものを買うのね。ことねは今日は局で何かある?」

琴音は首を振った。「今日は特に。町の見回りだけ。鐘楼の点検が終わったって聞いたから、あとで音を確かめに行くつもり」

瑤の瞳が一瞬、鋭くなる。「あの裂け目は見たけど、修理できたって本当かしら。もしまだひずみがあったら、また問題になる」

琴音の額にある薄い裂け目がちらりと見えた。季節の冷え込みや鐘の高音が響くと、そこが微かに疼くときがある。暦裂——いつの間にか町の誰もがその言葉を知っていた。琴音は手のひらで裂け目を隠し、淡く笑ってみせる。

「大丈夫。斎藤さんたちがしっかり直したって聞いた。けれど、もしまた小さな音が混ざるなら私たちで調べましょう」

焼き菓子屋の主人は、琴音の顔を見るとおまけに小さな丸い菓子をひとつ差し出した。瑠衣は歓声をあげ、琴音はその様子を満足そうに眺める。市場は小さな笑いで満ちていた。誰かが道端で子犬のじゃれ合いを指さし、また別の誰かが遠くの台で野菜の価格について口論する。日常がゆっくりと息づいている。

通りの突き当たり、鐘楼の影が影絵のように伸びていた。修復されて新しい鉄輪が取り付けられ、周囲の石は掃き清められていたが、塔の縁に残るひびの影が一筋、闇の中で目立っていた。琴音は歩みを少し速めた。鐘の音を確かめるのは、彼女にとっての習慣になっていた。音は人の心を整え、同時に過去の割れ目を思い出させる。

鐘楼の前には斎藤邦がいた。副将としての忙しさが顔に刻まれているが、今日は柔らかい表情だ。彼は通りの整理を終え、町の青年たちに細かな注意を与えている。琴音が近づくと、斎藤はすっとこちらを向いた。

「琴音、瑠衣か。点検はほとんど終わった。鐘の振動も均した。だが内部の亀裂は見えにくい。夜の寒さが戻ると、また微かに音が狂うかもしれん」

琴音は頷いた。「無理はしないでください。局で決めたとおり、定期検査はこれからも続けるべきですね」

斎藤は一瞬、琴音の額の裂け目に視線をやった。しかし言葉を選び、ただ短く言った。「君がここにいるだけで、皆が安心している。無理は禁物だ」

琴音は答えようとしたが、どの言葉が本当かを迷った。前世の記憶は、風にさらわれるように少しずつ薄れている。昨日確かにあった匂いや声が、朝には別の形でしか残らないことがある。家具の手触り、縫い針の重さ、都会の工房で嗅いだ木材の油の香り——それらは断片でしかない。ときどき、彼女の舌先にひとつの語が浮かんで、何かを呼び起こす。

歩きながら、ふと琴音の口から単語が漏れた。「糸車――」

瑠衣は首をかしげ、「それ、なに?」と尋ねる。

琴音は手の中の焼き菓子を見つめ、小さく笑った。「昔の遊び道具みたいなもの。誰かが精巧な糸を巻いて使うものだった気がする。……でもあなたには関係ない話ね」

それは前世の匂いのように、短く彼女の中に現れ、また消えた。言葉は確かに彼女の唇を離れたが、それが誰の記憶かを説明する余裕はなかった。琴音はその瞬間、自分が前世のどこかにまだ留まっているものを感じる一方で、現在の自分がどれほど厚く重なってきたかも理解した。彼女はその曖昧な織り目を、無理にほどこうとは思わなかった。

市場を抜けると、鳴海蘇が小さな机を並べて古い図版のコピーを町役人に見せていた。彼の顔には久々の「研究者の輝き」が宿っていて、琴音が近づくと、彼は一段と身を寄せた。

「ことね、来てくれてよかった。今度、学会に出て暦の制度について発表することになったんだ。北壁の事例を出せば関心を引くだろう。資料は君の承認が必要で、あの白紙の扱いについても論じるつもりだ」

琴音は一瞬ためらった。鳴海の言葉にはいつも知的誠実さと危うさが混じる。以前の彼なら、白紙の研究的価値を世に示す誘惑に勝てないだろう。しかし今の琴音は、白紙を封じた決定を覚えている。白紙は深い代償を伴う。朔日という制約、死者の復活を禁じる掟、そして書けば必ず誰かの運命が変わるという不可逆の代償——その代償は前世の欠片をさらに奪う。

「あなたの発表は、学界にとって重要でしょう」琴音は穏やかに言った。「だけど、白紙の件は局の合意のもとで管理されています。学術的な議論は歓迎しますが、実物の利用や無断の公開はやめてください。もう一度、誰かの人生を不可逆に変えるべきではない」

鳴海は少し顔を曇らせたが、すぐに微笑みを戻した。「もちろんだ。倫理条項は付ける。君の意思を尊重するよ。だが、一つだけ頼む。君の体験や結論を、どうか記録として残してくれないか。忘れられてしまうのは、学問としても、地域としても痛手だから」

琴音は黙って詰め寄る彼の手元にある図版を見た。そこには、北壁の暦輪と鐘楼の図、そして古い祭りの日取りの写しが重なっている。鳴海は理屈で世界を整理しようとする。琴音はそれを否定はしない。だが記録は慎重に扱われねばならない。人の記憶を文字にすることは同時に、誰かの運命を規定することでもある。

「記録は残すわ。でも、それは誰かの掌のなかで使われる道具になってはいけない。共同の判断として公開し、議論の末に制度化して。あなたがその手続きを手伝ってくれるなら、私も協力する」

鳴海は真剣に頷いた。「わかった。君の言葉を大切にする。学者として、倫理を記すことを忘れない」

通りを歩きながら、琴音は自分の胸の内にある静けさと、同時に消えゆく声の渦を感じ取っていた。使うことの代価は具体的だ。書けば必ず誰かの人生が変わる。あるときは救済となり、あるときは遠い流浪を生む。朔日というルールは、たとえ神秘がどれほど揺さぶっても、暦の余白を安易に開かせないための最低限の枠組みだ。琴音はその枠を、今は守る者となった。

午後になり、市場の賑わいはさらに増した。行商人の車輪が軋み、子供たちの叫び声が交差し、誰かが遠くで歌を口ずさんだ。瑠衣は菓子を頬張り、飽きることなく通りを観察している。琴音の手はしばしば瑠衣の髪に触れて、その柔らかさを確かめる。そこにあるのは、記憶の喪失に対する小さな抵抗だった。過去を取り戻すことができなければ、今ある人々をしっかりと見届けること——それが琴音の新しい基準になっている。

夕方、町役場から使いが来て、琴音に短い用件を告げた。